Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan
no Live_bibouroku》3.26
vol.142
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'09. 3.26. 久しぶりに観続けたTVの連ドラ『ありふれた奇跡』の脚本家 山田太一作の芝居だったが、初演で伊沢かの子を演じた南風洋子が亡くなり、直子を演じた樫山文枝がかの子を演じることになったとのことで、信一を演じていた伊藤孝雄との年齢的な釣り合いからすると、初演どおり妻の直子を演じるなら似合いだけれども、信一と同じ年頃の亡き息子の母親というのは、流石に無理がある気がした。伊藤孝雄の配役をもう少し若くしておかないと、役の人物造形自体に陰気な影と籠もりがある設定なんだから、演技で実年齢とのギャップを埋める余地が少なくて、かの子と信一が親子ほどの歳の差には見えない。 30年前にわずか二日会っただけの人物の面影を互いに覚えているばかりか、その名も変わっているのに、再会し確認し合える人生の奇跡は、ある意味ドラマ『ありふれた奇跡』以上の奇跡だと思ったが、その縁が交通事故死させた友人の母親だというのは、どこか取ってつけた感じが拭えない。作者としては、男女関係とは異なる縁で結びたかったというところなのだろうが、その意思は伝わりながらも、そのようにした意味と効果が充分に活かされているようには思えなかった。そこには、二人が親子ほどの歳の差には見えないことも大きく作用していたように感じる。 また、かの子がようやく得られた自由に羽根を伸ばすべく、施設入居を拒み、行方不明者として放浪の旅に出る意思を見せることに対して、信一が懸命に思い止まらせようとする姿においても、彼がかの子の息子の死に責を感じているという前提があると、信一が彼女の旅への意思に対して自死の影を観ているとの映り方が強くなってしまい、物語における“かの子の放浪の旅”のイメージが曖昧になってきてしまうような気がする。 もし作り手がそこにまさしく“死”のイメージを託しているのであれば、かような曖昧な仄めかし方は慎むべきだと思うし、“自由と解放”のイメージを託して、施設型福祉の型枠に嵌められることへの抗いを支持しているのであれば、信一の引き留め方の演出については、もう少し工夫が必要だったのではないかと思った。 県民文化ホール・オレンジ |
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