Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》1.24


vol.151

10.1.24

南河内万歳一座公演『似世物小屋』
高知市文化プラザかるぽーと小ホール

 劇中流れたプレスリーの歌声どおりに「only fools rush in」とまでは、自分がwisemanだと言うつもりはないから、言わないけれども、僕はブランドも行列も嫌いだから、開幕早々の行列ネタの風刺味の痛快さには快哉を挙げたが、少々これ一本で引っ張りすぎた気がしなくもない。
 だけど、冒頭と最後に繰り返された手紙について語る言葉には、旅公演を大事にして重ねている劇団の姿と相俟って、ステージの動きとしてはドタバタ劇的なアップテンポを前面に出して何よりも身体性を重視しいるように見える作品の作り手が考えている“演劇に託した想い”としての「言葉を重視した伝達」というものが浮かび上がってきて、少々感動的だった。タイトルからして偽物ではなく似世物であって、そこに世の姿を写し取ろうとしており、そのことが言葉で示されているわけだ。

 内藤裕敬の作品を数多く観ているわけではなく、『流星王者』[http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Ryusei_ooja.html]と『百物語』[http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/07/1-20.html]しか知らないが、恐らくは懐古趣味という批判に晒されることが多いのだろう。本作では繰り返し「手紙を読んでしまった後で読む前の状態には決して戻れない。」というような台詞が告げられる。
 それはそれとして、我々の日常にブランドとか行列とか本物志向といった言葉が当然のものとして蔓延するようになったのはいつ頃からなのだろう。やはり『流星王者』で内藤が「もはや、あの“夏の始まり”とまでは言わないけれども、せめて“夏の終わり”の花火の頃にまで戻れたら」と書いた“夏の終り”の花火の頃すなわちバブルの時代だという気がする。ブランドにしても行列にしても本物志向にしても、それ自体が忌まわしいわけではない。

 情けないのは、この作品でも指摘されていたように、それらが全て思考停止の受け売りや同調によって支えられた損得勘定でしかないことだ。そして、哀しいことに、自分が自分でなくなる不安と恐怖に晒され、そこからの脱却の必要性を認識するに至ってさえも、やはりついぞ自らの思考や模索によって求めることができずに、誰かの後をついていくことで抜け出そうとする態度を変えられないでいる。だから、遂には紐で括りつけられて、抜け出そうとしても引き戻される囚われにまで至ってしまうわけで、ステージで引っ張られていたプレスリーもどきやマリリンもどき、マイケルもどきやブルース・リーもどき、健さんもどき、そして、勢い余って背中を強く打っていたように見受けられた女装部長の滑稽な姿を笑っている場合ではないのかもしれない。
 何が本物で何が偽物なのかは、そうそう簡単に見極められるものでもなく、そもそも本物とは何を以って言い、また、どこまでを以って本物というのかも甚だ不確かで、その見極めが万人にとって価値のあることでもないというのは、少し物事に対して考える力というものを発揮すれば、容易に解ることのはずなのに、『流星王者』のときの“急行列車”ではなく、本物志向の“特別列車”にみんなが乗り込もうとするのが不思議でならない。

 少なくとも、我々『流星王者』の急行列車に乗って、急行の時代を享受し、居眠りという楽をしながら消費してきた自分たちを反省すべき世代は、この特別列車には乗り組むまいと改めて思った。そして、もう一つ思ったのは、この作品を書いた内藤氏に『ミスター・ロンリー』(ハーモニー・コリン監督)[http://wwwd.pikara.ne.jp/magarinin/2008/20.htm]という映画を観てもらいたいなということだった。もしかしたら既に観ているのかもしれないけど。


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