Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》3.28


vol.152

10.3.28

文学座公演 『ぬけがら』
(高知市民劇場第283回例会)

 年老いた父親が脱皮を繰り返して若返っていくという奇想天外な設定のなかに、親を見送り供養するということは、本当はこういう作業を言うのだろうなとの“普遍性の宿った感興”をもたらしてくれる好舞台だった。
 父親というものが息子に実に思い掛けない形で影響を与えていることは、親の側からしても息子の側からしても、よくある出来事だ。この公演の前日、大阪での次男の結婚披露の宴席で貰った手紙に綴られていた思い出話に意表を突かれたばかりだったから、余計にそんな想いが湧いてきた。
 四十一歳の卓也(若松泰弘)が出会う六人の父親が、それぞれ年代によって同じ鈴木卓二郎でも別人のように映るキャラとなっていて、それら全部を相手にしてきた母親 景子(添田園子)の偉大さに卓也が感嘆する場面が印象深かった。そして、そのなかでも妻にとって最も厄介なのは、認知症の入り始めた八十四歳の卓二郎(林秀樹)以上に、卓也と同じ四十歳頃の卓二郎(高橋克明)だとしていたのは、鈴木卓二郎に限らぬ男の一般像からしてけっこう納得感があった。それは、僕が作り手と同じくその歳を過ぎた男だから、なのだろうか。
 卓也の妻 美津子(山本郁子)と浮気相手 美代子(佐藤理沙)が卓也そっちのけで張り合う姿に、妙に現実感が宿っていたのがなかなか効いていたように思う。大学時分のサークルの後輩というあたりからも、作者 佃典彦の実体験がうまく活かされているのではないかという気がしたが、奇想天外な“ぬけがら”という設定とは対照的でありながら、どちらにも共通して可笑しみのあるところがよかった。この二人の女性の已む無き仕様のなさがあるからこそ、どかっと冷麦を作って食べさせる景子の場面の醸し出す、彼女の器の大きさが引き立つのだろう。
 人の生は、平凡なようでいて波乱に満ちており、豊かな物語性に彩られているということに改めて想いを馳せずにいられないような舞台だった。その物語を分かち偲ぶことがまさに供養というものなのだろう。そして、そういう供養をしてくれる子供を得ている人の死こそが最も孤独死と遠いところにあることをしみじみ思うとともに、そのような供養を果たせた卓也がどこか羨ましくなった。ふとした浮・u梛Cが尾を引くなかで事故を起こしたことから離婚と懲戒免職に見舞われた、とても羨むような状況ではなかったにもかかわらずだ。供養で得ていたものがそれだけ大きいように感じられたということなのだろう。なにせ早朝マラソンに汗を流して帰宅し生卵四個入りの大量の牛乳を一気飲みするような元気を見せるくらいに、あの草臥れたどん底の状況からは抜け出していたのだから、卓也はなかなか大きな遺産を得ていたことになるわけだ。


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