Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》5.13


vol.154

10.5.13

劇団青年座公演 『赤シャツ』
(高知市民劇場第284回例会)

 “当世流円滑紳士”を自認しながらも、坊ちゃんや堀田[山嵐](大家仁志)以上に、生きることに不器用な赤シャツ(横堀悦夫)の人物造形の妙が売り物の作品だが、その造形自体については、原典の展開に縛られざるを得ないがための無理が感じられる点もあったようには思うけれども、まずまず面白くは観た。同じ不器用でも、正しさに対し何らの屈託も抱かずにいられる粗暴な思考の坊ちゃんや堀田に比べ、傍若無人の独善に陥らないための懐疑性と優しさを備えている分だけ赤シャツの抱えていた屈託が、なかなかつらく苦しそうであった。

 原典の展開を踏襲させるために避けがたくなっていたと思われる、赤シャツの無防備さを過ぎた無為無策な成り行き任せぶりが少々気にはなったものの、進歩的な当世気質のマドンナ(安藤瞳)の言動に翻弄される形で赤シャツが被った事々の顛末からすれば、たとえ多少の手立てをしたところで、無為無策と大して変わらないくらいの違いしかなかったのかもしれない。明治38年の御世から、美人お嬢様の手に負えなさには大きな違いはないのだろう。困ったものだ(笑)。思考の粗暴な男たちの手に負えなさよりも遥かに手ごわい。

 2月に『ラブリーボーン』という映画を観たときの日誌に「囚われからの解脱を悟ることが救済に繋がるというふうに捉える思想を伝統的に宿していたはずの日本人も、明治維新以来、戦前戦後一貫した脱亜入欧[米]を重ねるなかで、囚われの親戚とも言える“こだわり”を持て囃し、功利への目敏さを賢さと見誤るようになり、刑罰に関しても応報刑論に囚われ、厳罰化を煽るようになってきている気がする」と綴ってあったことを思い出した。

 ラストでの赤シャツが嘆きつつ予測していた百年後の日本というのが、作者マキノノゾミが現在感じている日本の姿ということになるわけだ。僕には、赤シャツのように、坊ちゃんや堀田の単純さに憧れる気持ちはないけれど、作者の本音にそれがあるのだろうか。どうもそうとは思えないのだが、坊ちゃん・堀田を否定まではしていないあたりが、作者の備えている“当世流円滑”なのだろう。

高知市文化プラザかるぽーと大ホール


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