|
'10. 6.20.
劇団鳥獣戯画公演『三人でシェークスピア』
香南市赤岡町弁天座
思った以上に楽しく笑える愉快な芝居で、舞台と客席が近い弁天座には打ってつけの公演だった。オープニングからして上手最前列の桝席に座っていた赤星昇一郎が観客の一人であるかのような入り方を始める作品で、途中でもしばしば客席に演者が入って来て、劇と実際の虚実を入り交えている作品だったからだ。僕など前から二番目の桝席で観ていたために、席に石丸有里子が入り込んできて既知の友人にされてしまい、「mixiで知り合ったの」などと言うものだから、知人の観客のなかには真に受けたものがいた。
休憩を挟んでのハムレットに入ってからは、演劇ワークショップを模して客席を巻き込んでの大変な盛り上がりを見せていたのだが、生贄の一人にされた僕は、客席で一人立たされて、両手を伸ばし左右に揺らせながら「そーかもしれなーい、違うかもしれなーい」と劇中人物の心を感じ取る動きをやって見せるよう求められたりした。その件では、あとから別の知人に「あれは仕込みでしたか?」と訊かれる始末。他にステージに上げられた観客も二人いたけれど、みんな気持ちよく参画していたのは、もちろん劇団の力もあるだろうけれど、弁天座という小屋の持っている“場の力”にも、とても大きなものがあるように感じた。
しかし、最も感心したのは、単に楽しく愉快なだけではなく「三人でシェイクスピア全37作品を90分で演じる」との謳い文句に、あながち大法螺ではない納得感を残してくれたことだった。 最初にシェークスピアのあらましを紹介したのちに取り上げた、誰もが知っている『ロミオとジュリエット』で、例の名高い「薔薇は薔薇という名前でなくても甘い香りに変わりない」という台詞を抽出し、シェークスピア作品の持つ哲学性に触れつつ、90分通して言葉遊びやふざけによる笑いで運び、『オセロ』のムーア人の肌は黒ストッキングを被って意表を突く。
喜劇16作品については、どれもが当時の流行りネタをパクった同工異曲で、誤解擦れ違い勘違いのぐじゃぐじゃ恋模様の挙句の、みんな結婚してめでたしめでたしのワンパターンだと題名を並べて一文の物語にした口舌で煙に巻きつつ、歴史物もイギリス王家の系図を広げて一括していたのだが、『ハムレット』では、一つの悲鳴の背後にある心理について“イド・エゴ・スーパーエゴ”を持ち出し、フロイトの三百年前からシェークスピアが人間心理の奥深さを捉え表現していたことを伝えていた。
とりわけ感心したのは、シェークスピアの面白さの核が“虚実”にこそあるとの捉え方を基軸にした舞台構成だった。人の言葉や心に潜む虚実を見事に炙り出しているのがシェークスピア劇だからこそ、舞台構成においても、客席と演者の境界を越えていくのだろうし、役者が観客として存在してみたり、観客が演者になってみたり、舞台上でも、演者が役柄であったり役者であったり、果てには演じるのが嫌になったから逃げ出して中断したりといった虚実の意匠が施されていたのだろう。
数々のギャグのなかには、トホホなものも含まれていたが、これだけ笑い、感心させてくれれば、大満足と言える楽しさだった。
|