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'10. 7.22
劇団M.O.P.公演 『さらば八月のうた』
(高知市民劇場第285回例会)
高知市文化プラザかるぽーと大ホール
マキノノゾミは芝居が下手だが、芝居を作るのは滅法上手いと改めて感心した。生きて在ること、命や心を繋ぎ継いでいくこと即ち、“人の生”の深みと味わいをハートフルな眼差しで捉え、1932年から2010年に渡る三世代の人々の人生を、折々の時代の息づきを感じさせる道具立てを巧みに取り入れて活写していたように思う。
とりわけ会話が生き生きしていて素晴らしい。台本と役者と演出のマッチングが絶妙に感じられるのは、役者に恵まれていることもあろうが、やはり座付作者の強みなんだろう。
最終公演と銘打たれた芝居だけに、作中のラジオDJ神崎カオル(キムラ緑子)が迎える、26年間続いた長寿番組の打ち切りが、劇団M.O.P.の解散と重なる。長年コンビを組んできた放送作家の柴田(小市慢太郎)の仕組んだ、最終回でのカオルへの餞が、勝気な彼女の心を動かした場面が素敵だった。そのままマキノからキムラに向けた今回の公演台本の持つ趣向と重なる。オンエア中は泣かなかったカオルがその後で見せた涙が心に沁みたが、M.O.P.恒例の舞台後のステージでの劇団メンバーによるブラス演奏に際して、キムラが涙ぐみながら楽器を手にしていた姿がカオルに重なり、演出によるものとも溢れた真情とも見分けのつかない彼女の涙に、神崎カオルの涙以上に心打たれた。
時代の重なり、縁の重なり、言葉の重なり、数々の重なりが織り込まれていた舞台だったように思うが、そもそも男女の身体の重なりによって始まる人の生が、数々の重なりによって綾なされるのは必然なのだろう。
その綾にきちんと目を向けることが人生を見つめるということであり、歴史を学ぶということでもあるとの思いが作り手にあるような気がした。
氷川丸をモデルにしたとの寒川丸で1960年に出会った両親の元に1961年に生まれたカオルの生年は、ちょうどマキノやキムラの世代で、1958年生まれの僕とも重なる。柴田が修学旅行で未来の妻と出会った1976年に僕は高校を卒業し、東京に出た。深夜放送のラジオ番組に親しんだ最後の世代のような気がしなくもない。
その点では、常盤貴子がDJだった映画『引き出しの中のラブレター』に主題的に通じる部分を持ちながら、よりスケール感と味わい深さに長けていたように思う。そういう快作のなかで、1960年に男が聴き耽っていたラジオ放送がDJ番組ではなく、野球中継だった理由が「大洋が一敗」にあったのが何とも可笑しいものの、そのことが判る世代は、どのあたりまでなんだろうとも思った。
幾太郎(奥田達士)の善良さが少し現実離れしているように思えなくもないが、半世紀くらい生きてくれば、稀人には違いなくとも、市井にはあのような善良さを体現している人が実際にいることを知っている。それは小さな奇跡なのだが、人生は、そういう小さな奇跡に満ちているものであることを、偶然では済ませられない事々の重なりを物語ることで改めて感じさせてくれる作品だったような気がする。
それにしても、カオルの同級生ヨシエを演じた林英世の土佐弁は上手かったなぁ。
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