|
'10.9.9
前進座公演『あなまどい』
(高知市民劇場第286回例会)
高知市文化プラザかるぽーと大ホール
江戸時代の敵討ちに材を得た物語を観ていて、今の日本人が感覚として失ってしまった最大のものは“見極め”に拠るのが判断であると自ずと思える感覚なのかもしれないと思った。家老戸田左京(武井茂)と上遠野関蔵(嵐圭史)の遣り取りにおいても、事実だとか証拠だとかいったことは問題にされず、人物を見極める己が眼力こそが根拠であって、それが及ばなければ欺かれ、視る目を養えば真偽を見誤ることはないという非常に自己完結的な潔いまでの自己責任感覚が根底にあり、それこそがかつて日本人の持っていたものだという気がした。
そのような文化にあっては、本来“自己責任”というものは他者に向けて発せられるものでは到底なかったはずなのに、昨今は専ら他者に責を求める論拠のように冷然と使われるのがいかにも嘆かわしい。関蔵が妻の喜代(浜名実貴)に向けた言葉にあった「衷心から信じるか」という問い掛けの“信じる”というのも、現代語の“信じる”とは恐らくその意味が違っているような気がする。
論理的でないという観点からは極めて非論理に違いないのだが、論理的ではない“理(ことわり)”によって、それなりに秩序は保たれていたのであって、証拠や論理に頼らなければ、社会が営めないわけではない。僕自身は、個人的には、論理の大切さを訴えたい側に属しているつもりだが、あまりにそればかりに終始した不毛な議論を見るにつけ、必要なのは、論理を戦わせることよりも道理の共有のほうなのにと思うことがよくある。論理は共有・確認のためのものであって、論戦のためにあるのではないように思う。論戦ではなかなか決することのできない時効や死刑といった制度の存廃にも関連してくるものを今回の芝居は含んでいたものだから、よけいにそんなことを思った。
そもそも、無期限の敵討ち制度によって得られる社会的価値というのは何なのだろう。
個人的腹いせではなく社会的な“制度”としてのものなのだから、個人的溜飲などではない社会的価値が得られないのであれば、制度化すべきものではないのは自明のことなのに不思議な気がする。時効を廃止するというのは、こういう時代に先祖帰りしようとすることのように思えた。
それにしても、嵐圭史と浜名実貴の老け演技は、細部に至るまで丁寧で、見事だった。
実年齢は一体いくつなんだろう。
|