Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》演劇祭 KOCHI 2010


vol.155

演劇祭 KOCHI 2010

観劇ラリー指定作品
'10. 5.14. 劇団彩鬼 -irooni-『かざぐるま〜真打〜』 メフィストフェレス
'10. 5.16. 劇団3.3番地『決して折れない3本の矢』 グラフィティ蛸蔵
'10. 6.20. ゲキダン泪目『OH!!父さん』 グラフィティ蛸蔵
'10. 7. 4. 劇団theater holic『もう、なにもうかばない。〜都会を夢見るフリーター少女と地方劇団座付き作家、その盲目
の妹の物語〜』 グラフィティ蛸蔵
'10. 7.11. 屋根裏舞台『マガタマ』 グラフィティ蛸蔵
'10. 7.18. TRY-ANGLE 『農業少女』 グラフィティ蛸蔵


 演劇祭 KOCHI 2010が始まった。今年は、STHもMACも参加していないのに、観劇ラリーを組めるだけのプログラムが揃ったのだから、たいしたものだ。高知演劇ネットワーク・演会が十年間で培ってきた演劇祭の実りというものを感じる。
 ラリー指定作品1は『かざぐるま〜真打〜』。劇団彩鬼の第4回公演なのだそうだが、彼らの公演を僕が観るのは初めてだ。
これまでの演劇祭 KOCHIを支えてきた劇団のいずれの公演でも観たことのない種類の芝居で、思いのほか観応えがあった。前説で演出家から、生音・オリジナル脚本・最小限の装置、の3つを基本に作品づくりをしているとの話があったが、チラシの表記が「監督」になっていて驚いた。演劇でも、戯曲ないしは台本・演出といった用語をもう使わないものも出てきているらしい。
 出演者みんなの声がしっかりしていて、光量を絞った狭い空間での怪談語りの雰囲気がよく生きていたように思う。唄と語りと芝居の構成バランスをほぼ等分にしているどころか、唄・音楽を重視している感じが、これまでの演劇祭で観たことのない新鮮感を誘ってくれたような気がする。
 冒頭の場面からすると、戦による孤児の引取りを行い、村ぐるみで育て「それはそれは情の篤い村でした」と語られるような村を庄屋とともに作り上げてきた村の開祖とも言うべき住職も、冬越えのために村人が止む無く行なう山賊行為による強盗殺人に加担していたようだ。悲恋物語として展開するだけに終わらず、怪談話に膨らませ、それを奏功させる演技・演出を果たしていたことに感心した。客席から啜り泣きのような声が漏れ聞こえてきたのだから、たいしたものだ。
 ラリー指定作品2の『決して折れない3本の矢』は「〜外灯の下で3つのお話〜」との副題からすれば、舞台装置になっていた一本の外灯(街灯?)と二つのベンチのある場所が3.3番地ということで、同じ舞台装置を使って演じられる3つのお話が、一つ一つは弱いけれども、束ねて上演すれば“決して折れない3本の矢”になるとでもいう意味だったのだろうか。あるいは、劇団3.3番地の役者の出所として表示のあった、フリー・OOK・劇団33番地の3つ劇団が合わさって折れない3本の矢ということだったのかもしれない。

 構成された3話は『3チャンネルスイッチ』『銀河鉄道33』『ヤマデダンス』。いずれもコミカルな味と笑いを誘う仕掛けにポイントがある作品だろうとは思ったが、僕が可笑しくて笑いを漏らしたのは、『銀河鉄道33』のナゾの女(ウォレス・サカイ)だけだった。「マーテルでもミーテルでもムーテルでも…でもないモーテル」と名乗った著作権ネタも面白かったが、舞台演出面での間の長さが多用されすぎで、バドミントンの試合で疲れていたせいもあろうが、その間合いが可笑しさに繋がらず眠気を誘ってきていた。
 『3チャンネルスイッチ』は、時事性には富みながらも、その切り口そのものが少々凡庸に過ぎる気がして、もっとひねりと笑いが欲しかったように思う。『ヤマデダンス』は、最後のダンスシーンが思いの外よかったももの、ダンスの部分以外において作り手のしたかったことがあまりピンと来ず、そのために少々退屈した。

 ラリー指定作品の3作目は、『OH!!父さん』。「お父さんによるお父さんのためのお父さんの芝居。加齢臭漂う短編芝居のオムニバス。」と謳われた短編は『バス停で待つ男』『長縄跳び』『エロ本』『子育て』『父親教室』とでも題することができそうな5編だった。惹句にあった「来る日も来る日も妻の為、子供の為、親の為、会社の為、何より自分の為に頑張るお父さん達が主人公。」との切り口に惹かれたのだったが、もう少し台本を練り込んでもらいたかったように感じた。とはいえ、行正忠義の作・演出らしい身体表現重視の制作姿勢は、好もしく、僕は好きだ。
 勝手に名づけた短編題だが、僕にとっては『エロ本』が最も面白かったのだが、そこには“父”なる要素が『バス停で待つ男』同様に、ほとんど感じられなかったのが残念だった。もっとも日本語に言う“お父さん”には「=中年男」という面もあるので、演題に偽りなしとは言えるのだけれども、それならそれで『父親教室』には中年男の側面はほとんどなくて、全体構成が少々散漫になっていたような気がした。
 それにしても、行正・丸山・井上、いずれもブルース・リーの世代ではないはずなのだが、『燃えよドラゴン』という作品は、やはり偉大なんだなぁと妙なところで感心した。

 ラリー指定作品4の『もう、なにもうかばない。』を行なった劇団theater holic がメフィストフェレス3Fホールで公演をしていることは前々から知っていたけれども、不思議と折りが合わず、今回初めて観た。本作は、六年前の作品の改訂版による再演とのことだったが、床にラインを引いて“window”といった表示をしただけで、間仕切りなしの素通しで家具を置いていた設えが、映画『ドッグヴィル』を想起させた。かの映画の公開も六年前だったから、その影響なのかもしれない。思った以上に本格的なオリジナルのストレートプレイに取り組んでいて感心した。

 地方都市で劇団を主宰し座付き作者もしているソラオ(柴田恵介)と別れ、東京に出て行くことにしたミナコ(元木愛里)の台詞の滅裂ぶりのなかに痛烈な指摘が入り混じっている様子が、いかにもリアルな女性の言葉として、とてもよく書けていたように思う。脚本・演出を担った松島寛和の実体験が活かされているような気がしてならなかった。
 その殆ど捨て台詞とも言えるような随分な言い分と別れ方をしたミナコに、いくら幼馴染とはいえ、どうしてソラオがいつまでも想いを寄せているのかが、きちんと納得できるような人物像をきちんと怠りなく最後に示していたことにも感心した。盲目だけれども、目には映らない空気や心が誰よりもきちんと見えているカズヨ(山田紫織)の存在が効いていて、冷静な状況把握を観る側に促してくれる構造になっていたように思う。
 演技者では、やはり柴田恵介が一頭地抜きん出ていて、ソラオの純真に不思議な説得力を添えていたように思う。劇団OOKで見せるハイトーンの芝居とはまた違った側面を見せてくれていて、なかなか興味深かった。
 僕が少し気になったのは、地方に留まりながら劇作家として注目をされるに至ったソラオの元を訪れたミナコが、上京を誘ってくれた著名作家との間に娘を設けながらも棄てられ、女優としての夢が破れて苦境にあっても、ソラオやカズヨからの帰郷の誘いを拒み続けるなかで、ソラオから「満足しているのか」と訊かれて「満足している」と答えた台詞だった。「満足している」とまで言うと、どうしても強がりのニュアンスのほうが濃くなるので、「満足とは言えないかもしれないけれど、何一つ後悔はしていないわ」とでもしたほうが、作り手が最後の場面で示そうとしていたはずのミナコの人物像がより活きて来るのではないかと思った。

 ラリー指定作品5の『マガタマ』は、言葉遊びを好んで多用する奥田恵の台本に倣って言えば、奥田恵がちょうど角田恵(書くだけ(笑))となったかのように、彼が演出を離れた初めての公演だったようだが、それだけではなくて、渡辺枝里も安西寅も出演しない公演だった。それなのに、やはり屋根裏舞台らしい芝居だと感じたのは、彼らがきちんと劇団カラーを獲得している証拠なのだろう。
 奥田演出ほどには疾走感を役者に強いることはないながらも、渡辺演出でもやたらと舞台上を走りまわっていたし、一人の役者が幾人ものキャラクターを重ねて少ない役者数で回していた。渡辺も安西も裏方に回ったからには、役者の少ない劇団事情というよりは、演出意図として敢えてそうしているらしいことが、そこに窺えたように思う。僕が観劇した彼らの舞台では最も魅力を感じた二年前の『太陽色の水溜り』ほどではないにしても、今回も縦の動きがきちんと織り込まれていたし、視覚空間としての舞台を強く意識していることにおいては、演劇祭KOCHIの参加劇団では常に筆頭格にあって、今回の舞台ではスモークばかりかレーザー光を取り入れた照明も見せてくれていた。
 台本としては、なぜ“冬の日”ではいけなくて“夏の日の少年”なのかと言いたくなるような慣用・常用のイメージや言葉を多用する部分は、その言葉遊びやイメージ遊びが上手く嵌れば、新鮮なインパクトを産み出すものの、滑れば安直さと下品さを招きかねない両刃の剣なのだが、奥田恵の台本は、いつもそのあたりを行き来しつつ、僕にとってはトータルとして今一つに感じられることが多い。圧倒的なパワフルさで汗を飛び散らせる舞台上の動きと早口に捲し立てる台詞回しで、そこのところを押し切ろうとする力技にはいつも圧倒されつつも、あまり好感を抱いてなかったのだが、渡辺演出は、奥田演出を偲ばせながらも、力技で押し切ろうとするような意思が感じられない分、厭味がなかったように思う。

 『太陽色の水溜り』ほどの結実には至ってないように感じられながらも、少なくとも四年前の『シェイクスピア作曲幻聴曲第5番“オセロ”』などに見られたような取って付けた大テーマを振りかざすことなく、且つ『太陽色の水溜り』のような私的物語を超えた形で、いかにも閉塞感に囚われている時代の空気に対する突破感を託したイメージを現出させようとしている志が窺えた点に、好感を覚えた。

 ラリー指定作品の最後は、6作品のなかの唯一の既製作品で、野田秀樹作の『農業少女』だったが、地方での地元劇団での公演なれば当然のこととして、“東京”に対する“農業の地”は高知でなければならないわけで、そこはきちんと土佐弁にしてあったのが嬉しかった。しかし、毒草研究家を自称するヤマモト(虎哲)に土佐弁を充てるのは、確かに場面的には面白がれたのだけれど、百子の父親を装ったという理由があるうえに、百子と夜汽車で出会い上京に手を貸した彼の出身が高知ではないとは限らないにしても、作品主題からすれば少し違うのかなと思いつつ、かなり楽しんだ。
 十年くらい前の作品らしいが、改革や変革といったスローガンに踊らされて目先の変化ばかりを追い駆ける不定形で移り気な時代的気分という代物に翻弄されている今の日本の政治や社会状況をよく捉え、描き出している作品だと思う。この状況を、共和政の成れの果ての衆愚政治の様相を呈し、労働者党に国家社会主義を冠して改名したヒトラーを支持してナチズムに邁進していった戦前ドイツに近いものだと質すことを、論評ではなく舞台公演の形で行なうことには大いに意味があるし、とりわけ、ナチズムについての責を負うのは、ヒトラー個人以上に彼を後押しする時代的気分を醸成した民衆であることを、Wカップ熱に浮かされてバッシングと賞賛を繰り返す人々の“ニッポン”コールとともに舞台化していたのは、先ごろ終わったばかりの今年のWカップの状況からしても、実に真っ当なものだ。この部分がオリジナルどおりだったなら、衆愚化に係る十年前の先取りは見事なものだし、今回の公演に際しての脚色だったなら、なかなか大したものだという気がする。また、入場に際して配られた冷たい缶茶や上演前のケータイへの注意が作中の台詞や演出と巧妙に呼応していた部分も、オリジナルどおりなのか、今回の公演に際しての工夫なのか、興味深いところだ。
 それにしても、百子を演じていた中山遥がピカピカ輝いていて、とても印象に残った。間近で観たことも作用していようが、表情も言葉も動きも生き生きとしていて、すっかり魅せられた。ただ百子に関しては、失意のなかで心を病んだということなのか、人の言葉が耳に届かなくなったときの発語を聴覚障害者のそれに殊更に近づけたものに演出していた点には、少々疑問を感じた。自分が聞こえないと発声が大きくなるのは自然なことだけれども、百子の場合は通常の発語の仕方を習得した後に聞こえなくなっているに過ぎないのだから、発語の仕方までが変わることには違和感がある。
 世情のトレンドに沿って気ままにボランティア活動の分野を替え、所詮は影響力の行使にしか関心のない野心家の俗物である都罪を演じた北岡久志の悪びれの一切ない胡散臭い暑苦しさもキャラクターに合っていたように思う。虎哲の演じたヤマモトにはどういう性格付けがされていたのか不鮮明なままに、役者の個性のほうが前面に出ていたような気がしたが、台詞で示されたほどの年齢差までは感じられなかった点からは、もっと草臥れていてもよかったのではないかとも思った。


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