Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》9.2


vol.170

'11. 9.2.

高柳卓也・小暮はな“ポルトガルからの風”
会場:音楽実験室・新世界 in 西麻布

 映画の好きな僕にとってポルトガルのイメージは、オリヴェイラやモンテイロのおかげで、今や不思議の国のような奇想と哲学めいた瞑想が強いのだが、前半の小暮はなのステージのオープニング曲『かもめの住む街』を聴いて思い出したのは、二十五年前に観た『白い町で』['83] だった。
少し倦怠を含んだ何とも言えない哀感を覚えたからだ。だが、映画の印象とは違って、とても澄んだ透明感のある哀感だった。そして、『アンドリーニャ』『グランマ』と聴いていくうちに馴染んでいった、この澄んだ哀感を醸し出す歌声が、とても心に沁みてきた。
 ずいぶん前のことになるが、僕が自主上映などをやっていたときに取り上げた『リスボン物語』['96] でファドという民族歌謡の名称は記憶したものの、その後、きちんと聴く機会を得ずに来ていた。だから、そう確信的なものではないのだけれども、僕のなかでは情の濃い歌謡というイメージがファドにはあって、アイルランド民謡のようなノスタルジックな哀感が、もう少し乾いた感じで歌われる歌謡のような気がしていた。だから、小暮はなの歌声の澄んだ哀感に、とても清新な印象を抱いた。
 彼女がポルトガルで気に入られ、何度も演奏会を開いているのは、多分その澄んだ哀感の清新さによるものなのだろうと確信したのは、後半の高柳卓也の歌うファドを聴いてからだった。彼に特徴的だったのは、ファドを好み、とても深く交わっていることが伝わってくるような想いの濃さと出来上がった感のある歌声のこなれようだったように思う。それもまた聴いていて気持ちがよかったものの、鮮やかな対照によって、前半の小暮はなの清新さが改めて印象づけられたような気がする。たぶん上手いのは高柳のほうなのだろうが、僕にとって魅力的に響いてきたのは小暮のほうだった。
 ちょっとした遊び心も感じられた『PAPAGAIO DE PADEL』、詩心の伝わってきた『モノクロの夢の中で』、タイトルから元気の出そうな唄を予想してものの見事に外された『あたしはビンビンビン』などが気に入ったが、最も沁みてきたのは『タンポポのように』だった。曲も詩も歌声もとても味わい深かった。彼女の歌声も、歳を重ね、人生を重ね、歌い重ねていけば、もっと情感が濃くなっていくのかもしれないが、それはそれで味が出てくるというものだとしても、この澄んだ清新さを保っていてほしいものだと思った。
 小暮はなの全然こなれていないMCとシンプルなギターの後で聴いたせいか、かなりの割増で印象づけられた感のある高柳卓也のステージは、馴染みの薄いファドという歌謡についての解説が行き届いていて、さらにはポルトガルの歌や人を含めた文化そのものを愛し伝えようとする心が籠っていて、とても気分のいいステージだった。かつて自由劇場の拠点であったと聞いた小さな空間に非常にマッチしたライブで、場の醸し出す空気そのものが実に心地よかった。こういうステージがイベントではなく、スポットとして常設される環境は、地方都市ではなかなか望めないもので、余計にその価値が肌身に沁みてくるような気がした。
 この日は、ポルトガルギターの登場はなかったように思うが、高柳のステージになって俄然、技巧度を増したギターに、二年前と八年前の二回聴いたことのあるアコースティックユニット「マリオネット」の湯淺隆と吉田剛士によるポルトガルギターとマンドリンの演奏をまた鑑賞したい気分になった。


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