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【演劇祭KOCHI 2011観劇ラリー指定作品】
'11. 3. 6. 屋根裏舞台公演『ひみず』 蛸蔵
'11. 3.19. 第3回シャカ力のお芝居『逆境ヒーロー ダンガンマン 〜消えた惑星と失われた記憶〜』 蛸蔵
'11. 4.23. 劇団シアターホリック『空席が目立っております』 蛸蔵
'11. 4.30. 劇団プラセボ旗揚げ公演『陳家の三姉妹(弟)』 蛸蔵
'11. 5. 9. 劇団彩鬼 第五回公演『神在月に舞う桜』 メフィストフェレス3Fホール
'11. 5.14. 劇団OOK JOYザイルプロジェクトVol.0『高知イケメン図鑑-ON THE STAGE-』 蛸蔵
'11. 5.22. TRY-ANGLE act.21『偏路』 蛸蔵
'11. 5.28. 第4回シャカ力のお芝居『死神』 蛸蔵
今年もSTH、MACの参加がなかったが、昨年を上回る数の指定作品が挙がっていて、また劇団間の横のつながりがいろいろな形で結実していることが感じられ、ネットワークとしての演会が果たしてきた役割について改めて意義を感じた。昨年から前事務局長が代表になると共に、後継事務局長を確保できたことは、とても立派なことだと思う。
ラリー指定作品1の『ひみず』は、僕にとっては“希求”という言葉が観劇後、浮かんできた芝居だった。「求めても得られないし、また、分った気になって終わらせてもいけない答えを求め続けることに意味がある」というのが、人の生に対する作り手のイメージなのかもしれない。混沌と記憶というものが常に主題の背景に感じられる奥田恵の作品を僕が観るのは、今回で5作目だ。
会場で渡されたリーフレットに記されていた「辛い現実を避けて デジタル世界に引きこもり コミュニケートしている時代 さまざまな人間が出会い つながり 織り成す世界で かわっていく 想い」とのフレーズが、観劇していて余りしっくりと来ない感じだったのは、十年前の作品の再編集版だったからかもしれない。取り立ててデジタル世界への引きこもりが描かれているようには感じなかった。だが、人には“つながり”が必要であることを訴える感じは非常によく伝わってきたように思う。そして、そのことが十年前以上に強く求められる時代になっているということは、確かに言えるような気がした。
作中で二十三年前にきちんと補正のされていた1988年の列車事故で大勢の生徒が死亡した中国への修学旅行の事件は、地元高校のものだっただけに今なお記憶にあるものの、映画『ずっとあなたを愛してる』ばりの女医による実子殺人事件のほうは、とんと記憶になかった。
オープニングのスモークに緑のレーザーが当たって浮かび上がる光の靄が美しく、その包まれ感が胎内回帰のイメージ現出に非常に有効だったように感じられたが、物語との連関が今ひとつピンと来なかったのは少々残念だった。作り手としては、死そのものに対し、ある種、胎内回帰に近いイメージを抱いているのかもしれない。
今までに観た屋根裏舞台の公演のなかでは最も出演者の数が多く、いつものように一人二役や一人三役といった錯綜がなくて、芝居が観やすく分かりやすくなっていたように思う。特に意味を込めての二役三役でなければ、やはり同じ役者に役を被せるのを避けるのが原則で、それは思いのほか重要なのだということに改めて気づかせてもらった。
ラリー指定作品2の『逆境ヒーロー ダンガンマン 〜消えた惑星と失われた記憶〜』は、何らの新味もなく、全てがどこかで見たことがあるような陳腐さというものを、敢えて確信的に設えて他愛無さを露にしている作品だったように思う。そのことが、却って普遍性を偲ばせつつ思いの外の面白味を湛え得たのは、やはり類型色のなかできっちりとキャラを立てることができていたからだろう。とりわけ宇宙海賊イカ女(行正忠義)とダンガンマン(丸山良太)、そして、純真さを巧みに宿らせていた少年西田ひかる(西香奈子)が効いていたように思う。妙に脱力させられる笑いネタの数々に素直に乗れたのは、そのおかげだろうという気がした。
感心したのは、ひかるの母親(丸山良太)が飼い犬ジョン(行正忠義)を連れて散歩をしていたオープニングの場面で、実際にはリードをつけてないのに、リードに曳かれる犬の姿を演じていた身体表現の上手さだった。こういうところが行正の主宰する劇団の真骨頂だと改めて思った。犬や宇宙海賊の衣装についても工夫が凝らされていて、そういうところに制作費を割けない台所事情を率直に窺わせながらもかなり頑張っている感を伝えてきてくれていたのも面白く観ることができた要因の一つだという気がする。雷神かつらのカラフルさも何か可笑しかった。
惜しむらくは、こういう設えの芝居なればこそ、台詞での言葉遊びがもう少し効いていれば、もっと面白くなったろうに、と思わぬでもなかった。
ラリー指定作品3の『空席が目立っております』は、前回公演での来場者投票で決めた「怖い話」への挑戦!との触れ込みのオリジナル作品。執筆に際しては、ホラー映画を観まくって研究したのだそうだ。だから、ポスト・パフォーマンス・トークのゲストに「映画に詳しいお兄さん二人」を招いていたらしい。映画といえば、愛好映画に偏食無しを自負する僕ではあるが、ホラー系の映画、なかでもスプラッターを余り好まないのは、怖い映画というよりは脅かし映画だからだ。そういう意味では、映画を大いに参考にしたとしつつも、本作が些かも脅かし演出に傾いてはいなかったところに好感を持った。
映画のジャンル呼称で言えば、ホラー、スプラッターのほかにも、恐怖映画や怪奇映画、オカルト、スリラー、サスペンスなど様々な区分けがなされるのは、トークのなかでも指摘がされていたように、人が怖さを感じるものの性質に様々な違いがあるからだろう。大雑把に言うと、西洋の恐怖映画では、異星人をも含めて悪魔的な“非人間なるものの存在”が人間を脅かす物語を主流にしつつ、そこに基本的にロゴス的対決があるのと比べ、東洋ないし日本的な恐怖映画では、基本的に怨念や怒りを含め“人間なる者の怖さ”を主流にしていて、そこではロゴス的対立よりもエモーショナルな葛藤が折り込まれているような気が僕はしている。とりわけ伝統的な怪談話というものは、基本的に“因果応報的な戒めを含んだ因縁話”であって無差別大量殺人的なデザスター色には乏しかったのだが、近頃のジャパニーズホラーなどは、そういった伝統色からは解き放たれているように思う。
そういった点から観ると、最後にマツシマの“サキとの約束”を重要な因果として持ち出し、脅かし演出を排していた本作は、非常にオーソドックスな怪談を志向していたことになるわけだが、マツシマ自身がサキの家庭教師ではないなかでの因果としては、どこか取ってつけた形になるような気がした。
また、シオリを演じた山田紫織は、語り口自体に異界的な怖さが似合うところがあって良かったが、マツシマを演じた松島寛和には笑いのほうが似合うようなところがあって、怖さの表現には向いていないような気がした。
しかし、振り返ってみれば、怪死を遂げたと思しきアイカワは顔を見せる姿としては現れず、サキを殺したと思しき家庭教師は、その存在を伝えるべくサキの霊がマツシマの姿を借りてシオリに見せようとしていたのだから、マツシマを演じた松島寛和が演じて不思議はなく、同様に家庭教師と相対するサキの存在はシオリの姿を借りる他ないわけだからシオリを演じた山田紫織が演じる必然がある。そういう点では、マツシマ、シオリ、アイカワ、サキ、サキの家庭教師、サキの母親、の6人が登場する物語をわずか二人の役者で、しかも二役なしで演じていたわけで、なかなか巧妙に工夫されていた台本だったように思う。映画ならオーバーラップで転換して別キャストでのサキと家庭教師の場面を設けるに違いないのだが、舞台ではそうもできない。さればこそ、松島寛和はマツシマを演じるときとシオリの感じ取るサキの家庭教師を演じるときとでは、台詞や口調のみならず台詞のない場面でも歴然と識別できるよう所作等でも演じ分ける必要があるように感じた。
また、二役なしで演じていたとするなら、最後に「待っていたわ」と口にする女を絞殺しようとする男を山田紫織と松島寛和が演じていた場面だけがサキと家庭教師であるはずはなく、またサキなら「待っていたわ」となるはずもないのだから、シオリとマツシマということになる気がするのだが、そう考えるとなかなか怖い話ではあると思った。
少々難点に感じたのはサキの年齢設定で、高校生ではなく少なくとも小学高学年にまでは下げるべきではなかったかということだった。サキの母親と家庭教師の関係からしても、サキの母親に対する遠慮からしても、高校生というのは苦しい気がする。そのことは、恐らくは作・演出の松島自身も感じていたことではないかと思うのだが、先に挙げた“オーソドックスな怪談志向”ともども、松島の持つ確かな常識性というものが、足を引っ張ったのではなかろうかという気がした。
それにしても、与えられたお題に対してオリジナル作品を短期間で作り上げるエネルギーには、大いに感心した。
ラリー指定作品4『陳家の三姉妹(弟)』は、末弟の翔を演じた麦生の作・演出となっているからオリジナル作品のはずなのだが、そのこなれようというか、オリジナル作品的な尖がり感が些かもなく、物語の骨格、人物像の設定からオチの収まり方に至るまで、どこか既視感に見舞われるような“類型どころか典型とも言うべき台本”だったような気がする。だが、そこに不満を覚えるよりは、むしろ感心してしまうほうに作用してきたのが妙に面白かった。それは、そのような台本なればこそ問われてくる役者の力量や見せ方というものの出来映えがなかなか見事だったからだろう。
とりわけ佐々木(刈谷公浩)を追って皆が駆け回る場面での動きの流れの設計の巧さが印象深く、テーブルに置いてあった花瓶のように大ぶりなコップをアッチャラー(中村 愛)にさりげなく受け渡してからテーブルの位置を少し変える作業自体を追い掛けの駆け引きに組み込んで、非常に狭い舞台を有効に使って場面の動き全体を大きく見せる工夫が出来ていて感心した。また、フィリピンからの出稼ぎ娘だとの触れ込みのアッチャラーが間違えて覚えているとの設定で繰り出される日本語の可笑しさが単なる駄洒落の域を超えて気の利いたものが多く、少々しつこくはあったが、それすら笑いのネタにしていて、なかなかこなれていたように思う。僕は「奥で皿を洗え」に大いに笑わせてもらった。
だが、この“類型どころか典型とも言うべき台本”による芝居を陳腐だと感じさせずに、こなれた面白さとして活かし得た一番の功労は役者にあって、それぞれの役柄の与えらている性格付けをきちんと造形していたことにあるような気がした。和田アキ子の歌を上手に歌い、メイドカフェの擬態が達者な真紀を演じた嶋崎ユリカも良かったが、父親の頑固さと母親の辛抱強さを受け継ぎ両親を失くした陳一家を一身で支えてきた長女陽子の強さ優しさを体現していた博田佐貴が、筋立ての陳家同様に最も本作品を支えていたような気がする。同じメイド服を着て擬しても真紀と陽子の違いに現れていた二人の姉妹の性格付けの違いの対照がなかなか巧く、客席を笑わせながら自然と姉妹それぞれの人物造形を伝えていたように思う。なかなかのものだった。
ラリー指定作品5の『神在月に舞う桜』は、死なずの女の噂を聞いたか、との、サブタイトルだかキャッチだか分らないコピーの入っていた作品だ。オシチ(RED[鍋島恵那])が結局のところ、一体何者だったのか、よくは分らなかったが、琵琶の化身としての魔物であったにせよ、魔性を備えてはいても生身の女だったにせよ、物語に得心が欲しくなるような謎解きものではないところに魅力があるように感じた。歌と台詞回しの醸し出す妖しく不思議な世界がきちんと現出されていたからなのだろう。僕が愛好している映画になぞらえると、琵琶とバイオリンの違いはあるけれど、数奇な運命を辿ったバイオリンを狂言回しに、四百年の時を越え、五つの土地を舞台に、さまざまな人間たちによる、音楽という芸術との深くて濃密なドラマのなかで、音楽と楽器にまつわる、数多の人の思いの丈と時間というものを刻み込んでいたフランソワ・ジラール監督の『レッド・バイオリン』を想起させられるところがあって気に入った。
咲かずの桜が季節外れの十月に舞うというイメージと共に籠められた“死の匂い”には、梶井基次郎の『櫻の樹の下には』が偲ばれるような“一種神秘な雰囲気”と“悪鬼のような憂鬱”があって、ちょっと感心した。ドウシンを演じたOPTYにしろ、元宮大工を演じた魔陀羅にしろ、RED 以上に役者の個性がキャラクター造形を際立たせることに有効に作用していたように思う。TAKE の演じた従者の醸し出していた地味〜な不気味さもなかなか効いていて、役者の使い方の巧さを感じた。
ラリー指定作品6の『高知イケメン図鑑-ON THE STAGE-』は、非常に興味深い作品だった。「イケメン図鑑 KING OF イケメン。」と題された地元高知で発掘してきたイケメン総選挙。イケメンによる、女子のための、貴方に届ける、笑いの花束との触れ込みの「イケメンコント」。イケメンを狩る、現代を生きる肉食女子の恋愛スキル講座との「恋愛レボリューション講座」。この三部構成からなる公演を観ながら、芝居って何だろうと今更ながらに考えさせられたりした。
“芝居がかった”という言葉が指す芝居の意味は、たぶん“非日常性”という意味合いなのだろうと僕は思っているが、そういう意味での芝居をきちんと現出させ、台本も演出もあって、なんかそれらしくタレントやイベントMCを演じている感じを殊更に露にされると、演技感も強く漂ってくるから、芝居の要素は全て備えているように見えながら、芝居とは言えないような“素の楽しさ”を確信的に取り込もうとしているように感じた。言わば、非日常性を日常化しようとしている点が、そもそも非日常性を志向していると思しき演劇と対照的で、ある意味、非常に前衛的な要素を孕んだ公演になっているような気がして思いのほか面白かった。
しかも、そういった小理屈に関し、さしたる自覚もなく無造作にそうなっている感じというのが、妙に好もしく感じられた。「イケメンも、地産地消。」と記されていたコピーにある“地産地消”の部分も、演劇の地産地消に置き換えて捉え直すと、地方劇団の活動という点で、非常に興味深く且つ重要な問題意識なので、ちょっとドキっとした。
少なくとも確信的に意図していると思われる“地域の日常とのタイアップ”は、三年前に行なった『エスプリ-美ボリューション-』にもあったもので、そのときは一美容室との間だったので、タイアップ色のほうが強かったが、今回、手書きフリーペーパーとして配られた「イケメンはどこに行ったら会えるのか?の巻!!」を眺めると、地域性のほうが強く感じられる構成になっていたように思う。
そして、見てくれだけのイケメンを登場させたわけではなかったところがパフォーミング・アーツとしての演劇を意識させるものとして出色で、その内実は、場を持たせるうえでの必要性に迫られての選択要素だったのかもしれないが、カクテル・シェイクの動作だったり、ギターの弾き語りだったり、地域活動だったり、BMXトリックだったり、ストリートダンスだったりするバラエティの豊かさがそれなりの技量を窺わせて見映えがあり、公演の楽しさを盛り上げていた。
僕の愛好する映画というアーツジャンルでも、劇映画とドキュメンタリー映画の相互乗り入れというようなことが一つの潮流としてあるのだが、今回のOOKの公演を観ていて、演劇におけるそういうものに対する意識を触発してもらったような気がしている。そういう意味でも、なかなか面白かった。
ラリー指定作品7『偏路』は、演会の公演には珍しい既製台本による芝居だ。都会では四年前に劇団 本谷有希子によって披露されているらしい。若月(中山遥)の台詞にあった“人間や人生の薄っぺらさ”というものを振り分ける基準を、人は何によってイメージするのだろうか。作中の若月と同じ当時28歳の作者 本谷有希子が、自身の成功とは真逆の都落ちと女優になる夢を断念する娘の姿を通じて描出していた田舎の家族の濃密感は、確かに“グロテスク”と呼ぶに足るだけのものだったように思うが、どうも田舎暮らしのアクチュアリティが宿っているようには感じられなかった。それが演技・演出によるものか、台本自体によるものか、判然とはしないながらも、僕は後者による部分が大きいような気がしている。
サッシの掃き出し窓まで組み込んで舞台装置をしっかりと作っているところには大いに感心した。お芝居の見応えには、こうした部分も大きく作用するものだ。アマチュア劇団には負担も重く大変だろうが、それだけにインパクトも強くなるような気がする。
演技的には、甘ったれた娘の囚われの始末の悪さを中山遥はよく演じていたように思うし、若月の従兄ノリユキのダメンズぶりは、北岡久志が時にムカツク気分を誘われるくらい見事に体現していた気がする。少し疑問を感じたのは、父の従妹と思しき依子(笹原由紀)の狂躁を常態としている風情で、もう少しメリハリをつけたほうが素っ頓狂なときのインパクトに効果があったのではなかろうか、やや一本調子に感じられたように思う。それとは対照的に、虎哲の演じた父・木多宗生には、そういう意味での実在感があって、実のところは最も現実感から遠いところにあるキャラクターのはずなのに、妙に説得力があって感心した。どんなキャラクターを演じても、役柄よりも虎哲という役者の個性が先に立つような印象があっただけに、少々意表を突かれた。若月の従妹である知未を演じた前田澄子は、最も地で演じているような自然な感じがあったように思う。また、叔母の和江(竹村幸子)に奇抜な格好をさせることに作劇上のどういう効果を狙っていたのか、やや不明ながら、もし単にコメディ色を打ち出そうとしてのことだったとしたら、僕には余り効果的に作用はしてこなかった。
三年前に綴った『ポストマン』の映画日誌に<僕は、以前から「人生で一番大切なのは夢を持つことだ」というような言葉が、あまり好きではない。夢を抱いている人を醒めた目で眺める気持ちはないし、夢に向かってエネルギーを注いでいる姿には眩しさを感じもする。しかし、夢を持つことに強迫されている姿や他者に押しつけたりしている姿を垣間見るたびに、本来、自発的であるはずのものが本末転倒している馬鹿馬鹿しさを感じるのだが、現実に出くわすことが多いのは、夢を持ち夢に向かっている姿よりも、そういう本末転倒した人の姿のほうだという気がしてならない。“夢”幻想の弊害とも言うべきもののように思われるのだが、そもそも僕は、夢などという“いまだ獲得していないものを欲しがり憧れる心情”よりも、“現に持てるもの身近にあるものを大事にできる心性”のほうがずっと上等だし、大切なことだと思っているから、夢というのは、そのような心性を持ち得ない者にとってやむなく必要な次善のものに過ぎないと思っているようなところがある。>と記していたが、そういう感覚からすれば、本作には“夢”幻想の弊害部分に対する問題意識が如実に窺え、そこのところは大いに気に入った。
ラリー指定作品の最後は『死神』。これまでに観た“シャカ力のお芝居”のなかでも最も面白く感じられたのは、やはり三遊亭圓朝による落語を台本にしていて、物語の骨格がしっかりしているからなんだろう。演出面でちょっと感心したのは、死神を追い払って、うな丼を食べる段で、落語よろしく扇子を箸に見立てて食する所作を見せたり、いかにも落語のリズムを感じさせる台詞の間の取り方をしていたところで、原作台本に対するリスペクトが感じられて好感を抱いたし、舞台効果もあげていたような気がする。
最も観応えがあった場面は、やはり男(行正忠義)が死神(井上たくみ)に「助けてくれ〜、助けてくれ〜」と命乞いをする場面で、二人の台詞の繰り出しの対照が効いていて、なかなか良かった。また、一万両の大金に目が眩んで死神との約束をはぐらかす悪知恵を働かせたものの、男が本当に求めていたものは金ではなく、逃げた女房子供とのやり直しだったことを、死神の指摘した“期せずして妻子の蝋燭の火を見留める縁の深さ”によって気づかされたのであって、単に方便として持ち出した妻子の件とも言えない妙味が備わっているところが良く、そのうえで死神の「勿体ないぞ」に唆されて、せっかくの火を自ら吹き消してしまう迂闊さが、いかにも人間らしく、軽妙にして味わい深かった。
それにしても、“我が事ながら己の迂闊さに思わず驚く表情の誇張”というのは、いかにも行正に似合ったエンディングだと思うのだが、あまり強調されていなかったような気がする。どうしてなのだろう。
舞台装置では、頻繁に黒子を登場させて道具や幕を引いたりしていたのが、落語同様に日本の古典芸能である演劇の数々を偲ばせる効果があって、なかなか良かったように思う。幕を引く所作を上手くやり仰せなくても慌てずに、決して芝居の邪魔をしたりしなかったところに、基本がしっかりしていることを感じた。
ところで、呪文の「アジャラカモクレン、ダイオキシン、テケレッツのパ!」だが、三月に観たばかりの劇団文化座公演『てけれっつのぱ』の題目と重なるのだが、奇妙奇天烈の奇天烈から派生したように思われる“てけれっつのぱ”の本当の由来はなんなのだろう?
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