Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》9.2


vol.176

'12. 1.22.

高知演劇ネットワーク演会合同公演 『橋を渡ったら泣け』
会場:アートゾーン藁工倉庫 蛸蔵

 最後に赤柳香織(寺井さやか)が指さした、海に浮かぶパンダ型遊覧船の青い波間にユーモラスに揺れているイメージが思わず頭の中で見えたように感じられたから、僕にとっては相当に出来のいい芝居だったようだ。
 作=土田英生とチラシに記されていた本作は、一体いつ頃に書かれたものなのだろう。浅間山荘事件のことやらオウム事件のことを思ったり、小松左京の『日本沈没』やウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』のことを思ったりした。そのいずれの事件や小説においても見い出せるところのなかったユーモアを湛えつつ、そのいずれにも通じ内在する深遠なる主題としての“人間集団の危うい脆さと怖さ”を鋭く炙り出した、実に骨のある作品だ。そんな骨太の主題を抱えた作品に拮抗するばかりか、エンディングにおいて、上述したような残像を遺してくれたのだから、地元劇団による合同公演とは思えない大した芝居だったような気がする。
 島と化した乗鞍岳に暮らす男5人女2人の配役が抜群に良くて、その揺り動かしが想像しにくく感じられた。
役者たちが役柄をよく体現していたからだろう。とりわけ、リーダーに位置していたときの驕りや尊大と転落後の弱腰や卑小の対照を一貫した姑息さと明るく素朴な嫌らしさでともにリアルに感じさせてくれていた栗田守を演じた鶴守主藍梨、赤柳宗治のインテリの虚弱な情けなさを体現していた藤岡武洋、缶詰食糧の提供管理を担っていた長野高次の小狡いセコさと言い訳がましさを生々しく演じていた虎哲が目を惹いた。
 主題的には、腰を下ろすときは決まって最も座の低い椅子に腰掛ける井上義徳(丸山良太)の立ち位置が重要なのだが、彼を含め、最もブレ幅の小さかった香織さえも加えて誰一人ブレのない登場人物がいなかったところが秀逸だ。権力に冒されないでリーダーやヒーローに耐えるだけの器を備えた人間など、そうそういるものではないのだ。そして、その集団内で醸成される空気や同調圧力に影響されない人間もまたいないし、そういうものに迷いなく抗うことのできる者もほとんどいないということだ。栗田の増長が目立ってき始めた頃に、抗議の狼煙を挙げるかのような熱弁を八代満智子(笹原由紀)に奮っていた佐田山七郎(行正忠義)が、権力者の姿を目にするや逸早く指示された作業に従事する翻りを鮮やかに見せていたが、その変わり身の所作の呼吸には行正ならではの身のこなしと表情があって、なかなか可笑しかった。
 ほぼ四十年前になるが、僕自身にも苦い記憶がある。中学のバスケット部に在籍していた頃、運動部の三年生になったことで下級生に向かって自然体では臨めない状況に追い遣られたなかで、ぞんざいな態度で向かってきた後輩に対し、状況把握を疎かにしたまま横っ面を張り飛ばしたことがあって、想像以上のその効果の程と自分がそんな振舞いをしたことへの戦慄にすっかり怯むとともに、激しい自己嫌悪にかられたことがある。爾来、僕はリーダー的ポジションや権力に近いところに身を置くことで自らをスポイルすることが憚られるようになっていて、やむなく応じる場合も出来るだけ、副とか参謀的なポジションに就くことを求めるようになっている。
 栗田や佐田山がリーダーとして権力行使をする際に、そのスタイルに違いはあれども共通していた“正当化”は、常に集団の成員の了解ないし合意を求める形で行われていた。その点が非常に重要だ。知識に頼り自分の考えで判断することに臆病な赤柳宗治の零していた“基準”や難しいことは解らないが口癖の井上義徳が必要だと言っていた“規律”というものは、そもそもが「何のためにという大義と目的」を見失うと、とんでもないことになるのは自明なのに、その本末転倒をかくも人間に繰り返させる“権力”の魔力というのは、いったい何物なのだろう。恋愛をすると人は変わるなどとよく言われるが、権力を手にすることが人に及ぼす変調のほどは、恋愛などの比ではないとつくづく思う。
 各人の性質自体に到らなさはあってもタチのわるい悪など抱えていない人物造形に納得感があり、大いに示唆に富んでいた。少々の善意や正義感、知見では抗えない“権力の魔力”に容易に冒されるのが人間の本性であり、そこにこそ悪が潜んでいることを訴えていたように思う。間違っても無責任に強いリーダーを求める心性に流れてはいけないということだ。


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