Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》'17.11.21.


vol.299

'17.11.21.

劇団シアターホリック第24回本公演『孤独、あるいはマルキドサドに学ぶ幸せな人生の過ごし方』

会場:喫茶メフィストフェレス2Fホール

 何だかほんとに嫌な世の中になったなぁ、などと思ったのは、それだけ現在の日本社会と日本人気質を的確に写し取っている面があるからなのだろう。意図せず流されるままに堕ちていくマツダ(松島寛和)の身過ぎ世過ぎの変遷もさることながら、マツダが自分はこれで失敗を繰り返すと愚痴る“善意が仇となる成行き”を印象づけていたことが味の悪さを残したような気がしてならない。

 浮浪者に千円を施したことも、老婆の財布を落とし主に届けたことも、同棲相手を権力者に貢いでしまったことを悔いて救出に向かったことも、それ自体が仇を招いたわけではなく、それらによって偶々引き起こされた事態に対処する力量を持ち合わせていなかったからであって、それ以上でもそれ以下でもないことのように思えるのに、温情と薄情で以て“善悪”を問うている形にしてあることに釈然としないものを感じた。

 今の時代から想えば、本作の主な登場人物たちである十代から二十代の頃の僕は、本当に脳天気というかお気楽に生きていられる幸いを得ていたのだなと、1978年に二十歳を迎える時代に生き合わせたことの幸運が身に沁みた。それと同時に、こういう世の中にしてしまった世代的罪悪感にも見舞われた。

 それにしても、サドから学んだものとは何だったのだろう。孤独のほうは確かに判る。しかし「何がサド?」と、マツダの余りにもの“流され体質”を訝しんだのだが、終演後、活字印刷と恒例の手書きという二つのチラシに記された作者【松島寛和】の弁を読んで、「そーか」と思いながらも、あまり腑に落ちて来なかった。

 なにもサドを持ち出したりせずに、あくまでも作り手の内なるモチーフとしておいて、普通に現代日本を見つめた創作劇としたほうが良かったのではないかという気がした。ある種のアクチュアリティは、確かに感じられただけに勿体ない気がする。奇しくも「つい脱線してしまってペダンティックに語り過ぎるのはぼくの良くないところ」と印刷チラシに記してあったが、松島がペダンティックかどうかはともかく、善意ではなく、サドを持ち出したことこそが仇になっているのではなかろうか。或いは、前回本公演の『サド侯爵夫人』が思いのほか良かったことが仇になっているとも言えるのかもしれない。

 それはともかく、今回シアターホリックは、松山と高知での二元公演のみならず、熊本、名古屋でも本作の公演を行うことになったようだ。十年前には想像も出来なかった高知の劇団の県外劇団との頻繁なる交流や県外公演が常態となってきているが、僕の記憶違いでなければ、その先鞭をつけたのは、松島率いるシアターホリックだったように思う。今や四国中国圏域での交流は珍しくもなくなったが、九州、中部への進出は、現在活動している地元劇団では、まだどこもやっていないのではなかろうか。東京公演は、かつて試みた劇団がいくつかあるようだが、今回、東京ではない点が自分としては気になっている。またしても何かに繋がる魁となることを願っている。



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