Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》DumbType97

vol.5

高知県立美術館舞台公演シリーズ

'97.5.3.〜5.  
ダムタイプ S/N プロジェクト 1997『BEDTIME STORIES』 


    
 美術館舞台公演シリーズvol.7と銘打たれた、ダムタイプのS/Nプロジェクト『ベッドタイム ストーリーズ』が、五月三日(土)から五日(月)の三日間、県立美術館でおこなわれた。ホールでのビデオ上映とトークセミナーに加えて、講義室でのワークショップと、日本と海外のエイズポスターの展示[2F回廊壁面]をおこなう催しが、どうして舞台公演シリーズになるのか理解に苦しむだけでなく、無用の誤解を招いたことは何とも残念だった。これらの催し総てが、舞台公演のプラスアルファーとして、贅沢に盛り込まれたものだと思っていた人が少なからずいたことは、想像に難くない。ダムタイプが古橋悌二氏の死去により、パフォーマンス公演を中断していることを知っている観客が高知にたくさんいたとは思えない。にもかかわらず、この企画が舞台公演シリーズと銘打たれたのは、おそらくは、経費の支出が予算枠上舞台公演シリーズから拠出されたからなのであろう。しかし、そんなことは観客には何の関係もない話である。内輪の事情が観る側への配慮よりも優先されているとの指摘を受けても仕方がないのではなかろうか。

 この、実施する側の思いが優先されて、観る側の事情への想像力を欠いているというのが、今回の企画の最も際立った特徴であったように思う。ライヴであれば、さぞかし鮮烈であったろうステージも、ビデオでは、不満を増殖させるだけであった。パフォーマンス「S/N」の最も鮮烈な魅力は、おそらくは、生ステージでありながら、凝ったストロボや照明、ハイテクを駆使した映像などを多用することで、きわめてシンボリックな映像的イメージを空間に現出させることであったろうと思うのだが、もともと映像として存在することしかできないビデオによる再生映像では、その醍醐味の殆どが損なわれてしまうのは当然のことである。ましてフィルムではなく、ビデオカメラの光を捉える力の弱さと曖昧さでは何ともならない。それでも、映像作家が自らの作品として捉え、表現したものであれば、また違った意味で鑑賞に足る作品として成立し得るのだが、撮った者の顔の見えない記録ビデオでは、独立した作品にもなり得ようはずがない。

 また、ビデオ上映+セミナーという企画は、彼らのオリジナル・ステージを共有したことがある者やダムタイプ自身にとっては、一連のS/Nプロジェクトの厚みを増すものとしての意味を持つのだろうが、そうでない者には、核心を欠いた断片に過ぎなくなる。以前、美術館舞台公演シリーズで「ク・ナウカ」の公演を観た際に、完成度の高い優れた芸術作品に出会える機会もさることながら、創造の新たなる模索の過程や試みを同時代的に目撃する機会の貴重さについて教えられた気がしたが、今回の企画は、それとは似て非なるものだと言わざるを得ない。私は、五月三日の催しに参加したが、いくら創造の新たなる模索の過程や試みであったとしても、肝心な部分を欠いた断片の提示に立ち会っただけでは、同時代的に目撃することには全くならないと感じた。

 そういった根本のところでの企画に対する疑問がつきまとったからか、あるいは、“アクティヴィズム”に“言葉”で取り組むという難題への試みであったためか、セミナーについても、どうも言葉が構えたものとして血肉化していない空疎な感じが拭えなかった。そんななかで鍵田いずみ氏だけは、不思議と言葉が構えたものに感じられなかった。それはパフォーマンス「S/N」での古橋悌二氏にも共通するところで、そこがダムタイプの最もいいところであるような気がする。それだけに、嶋田美子氏や萩原弘子氏のような大構えの、いわゆる保守性とは逆の方向に硬直した、極めて保守的でしなやかさの感じられない感性のゲストによるセミナーでは、台無しだった。


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