Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》IDEVIAN CREW99

vol.22

高知県立美術館舞台公演シリーズ


'99.11.6.        
イデビアン・クルー公演 “ウソツキ”     


      
 何とも面妖な印象を残すステージだった。個々の踊り手の身体能力は、随分鍛えられていて、安心して見ていられるレベルにありながら、チームワークとして表現されるものがダンスとしては妙に散漫で、インパクトに乏しかったような気がする。それでもダンスとは直接関係しない部分で、匿名性と記名性についての興味深い刺激を受けたりもした。

 最初に登場した、頭部からすっぽりと全身黒いレオタードに包んだ姿は、性別すらも僅かに胸の膨らみ加減で推察するしかないほどの匿名性を踊り手に与え、顔ではなく、身体の動きやプロポーションのみによる個性の識別へと向かう視線を観る側に強要する。その一方では、踊り手各人が大きく名前を書いた白のブリーフを穿いていて、これにまさる記名性はないというコスチュームなのだが、記名性そのものは何の個性を表象するものでもないことを強く印象づけている。しかし、踊り手の顔が全く見えずに名前だけ知らされるという、普段とは逆の形で踊り手を見つめることは、ステージと客席のコミュニケーションの結び方としては、非常に居ずまいの悪いものだ。

 そのことに辟易とし始めた頃に、顔や踊り手によっては腕をもあらわにして踊り始める形に変わった。顔だけで決められることでもないはずなのに、途端に性別に対する推察が断定に変わるほどの安心感をもたらす。コミュニケーションや個性の識別ということでの“顔が見える”ことの意味と力について今更ながらに驚かされた。顔が見えるようになると、ブリーフに大きな字で書きつけられた名前がいつも貼りついていることの無意味さが際立ってくる。「銀行や県庁で職員に名札をつけさせるのは、個別の親密なコミュニケーションについては拒否しますという組織の意志を言外通知させるためにあるのかもしれない。近所の八百屋さんが名札をしたりするはずないものな。」なんてことを思った。そしたら案の定、程なくして全員がスカートのようなものを身にまとい、ブリーフの名前を隠して踊り始めた。最終的にこういうつもりだったのかと納得した。逆の形にコスチュームが進展したら、どんな印象を残したのだろうか。それはそれで興味深いものになったような気がする。

 それにしても、せっかくのあのコスチュームは、例えば全身全頭タイプのラバースーツにして、白いブリーフなどという安手の貧相さも払拭して、フェティッシュなテイストを目指すなんてことはしないのだろうか。“日常生活の中にこそ”という井手氏の視点からは望むべくもないことかもしれないが、白のブリーフというのは何とも冴えない印象で、僕にはユーモアにも繋がらなかった。
 チラシに謳われた“ダンスとしての視点からだけではなく、日常生活の中にこそ存在する動きなどを研究し、独自の世界を創ろうと”いう点から観ると、その意図は窺えるもののパントマイムの世界ほどの洗練も完成も果たしていないように思う。パントマイムとは違う形での身体表現として親しみやすさや日常性を取り込むことに成功したら、画期的なものとなるに違いない。


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