Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》KIMU ITOH97

vol.9 

'97. 11.10.    
伊藤キム+輝く未来:ダンス公演     会場:県民文化ホール・グリーン

 舞踏というものは、なかなか不思議でむずかしいものだと改めて思った。第一部の新作「rmk」は、つまらなくて些かがっかりしていたのだが、第二部で「生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?」を観て、空間の気配も空気の密度も全く異なった高いテンションを伝えてくることに驚いてしまった。どうしてこれほどに違うのだろうか。音響と照明と身体の動きというシンプルな要素しかないゆえに、出来の善し悪しが極端にはっきりと表れてしまうということなのだろう。それゆえ、むずかしいものなんだなと思わせる一方で、それが上手く充実したものとなったときには、こんなにも高いテンションで観る者を圧倒し、思わず手に汗を握らせてしまうだけの時間と空間を演出するのだから、何とも不思議なものだ。

 第一部では、何と言っても二人の女性ユニットのダンシングが弱い。また、振り付け自体にも当日渡されたチラシに書かれていたような、両性とその狭間に揺れる性のイメージが宿っていなかった。
躍動感という点でも、あれならストリート・ダンスのほうがよほど魅力的だと思う。ステージ全体の流れや振り付けの動きが、ほとんど記憶に残らないくらい印象の薄いものだった。

 ところが、うって変わって第二部のステージは、一連の展開が一週間を経た今でも鮮明に残っている。舞台上手に倒れうつ伏せる伊藤キムに、スポットがぼんやりと当たっているオープニングから、舞台下手奥より素裸の三人の男性ユニットが股間と顔を手で覆った姿でにじり寄ってくるように登場する。下手手前から斜めに赤い光が差し込み始めると、倒れていた男が赤い光に向かって歩み寄ろうとしつつも、足の裏で立ち上がることが出来ず、いざり寄るしかないままに何度も繰り返しながら、舞台を横切っていく。彼が光に近づくにつれ、背後に彫像のようなポーズで立っていた男たちが生気を与えられるかのようにさまざまな動きをし始め、次第に激しく身をくねらせ踊り出す。そこには、喜びや悲しみ、怒りや性的エネルギーなど生きている人間が本来的に持っているはずの感情や欲望がカリカチュアライズされた形で率直に大らかに表現されていた。そして、激しく大きな動きと晴れやかな表情を取り戻したところで三人の男性ユニットはスパッと袖に引き、キムのソロが始まる。それは、ユニットのダンスとは対照的にゆるやかで大きなダンスで、円の動きを中心にした実に伸びやかな広がりを観ている者に与えてくれる。殊に手の動きが素晴らしかった。

 それにしても、彫像のようなポーズを取ったまま静かに移動し回転する三つの裸像が強烈だった。
舞踏が肉体とその動きの美を表現するものである故か、裸体は珍しくはないけれども、一糸まとわず股間に手を当てたままで静から動にいたる動きまで演じて見せるとは思いもよらなかった。最初はスポットライトの陰影のせいで、まるまるのすっ裸だとは思わなかったのだが、背面を見せたときに例の紐パンなり褌の線が見えないので、もしやと思ったら、動きが激しくなるにつれて照明も明るくなり、すっ裸だということが判った。激しい動きに股間を覆う手がずれてしまうのではとスリリングな気分とともに目をやると、はずれないようにしっかりと握り込んでいた。しかも、握り込んだままで引っ張ったりするもんだから、きちんと剃毛してあることまで判って、滑稽さと恥ずかしさと強烈さに動揺と眩暈が招かれる。その男性ユニットのダンスの前を伊藤キムが、ゆっくりとゆっくりと脚を立てようとしつつも立ち上がれずに、天を仰ぎ地に祈るようにしながらの歩みで横切るのである。何とも不思議な力強さと敬虔さに満ちた濃密な空間ができあがっていた。

 ソロになってからも、なかなか足の裏が床につこうとはせず、しっかりと踏み締めるまでの時間が固唾を飲むといった感じのテンションを帯びていたし、立ち上がってからの緩やかで大きな手と身体の動きは、それまでの窮屈さと緊張を一気に解放してくれるかのように、何とも伸びやかで開放的なリラクゼイションに満ちていて、感情のレベルを越えた喜び、すなわち生命の歓びとも言えそうなものを表現し得ていたように思う。さすがに“バニョレ国際振付賞”を受賞しただけのことはある。 


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