Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》MITOU room No.6
vol.15
'98. 8.25.
演劇集団未踏『6号室』(高知大学演劇研究会OB会)
チェーホフを舞台で観ることは、これまでにも市民劇場の例会で何度かあったのだが、その度に何故いまチェーホフなのかがピンと来ないステージばかりだった。ニキータ・ミハルコフ監督の映画を通して知るチェーホフはたいそう魅力的なのに、演劇で観るとどうしてそうなるのか不思議な気がしていた。今回『6号室』を観て、舞台でのチェーホフの面白さを初めて感じることができたように思う。これまでの舞台は、「文学座」にしろ「円」にしろ、新劇の古典としてのチェーホフをやること自体に意味を見いだそうとし、結局そこに留まっていただけだから“チェーホフをやる”ということ以上の意味が舞台から伝わってこなかったのだなと一人納得させられた。裏を返せば、チェーホフは新劇において、それだけ偉大な存在だということなのだろう。しかし、未踏の舞台は「常に時代と向きあいながら」とチラシに謳い込んでいるだけあって、“チェーホフをやる”ことだけに満足していない。漠とした不安と混迷、あてどのなさにうろたえつつ、「人にとっての幸福とは何だろう」とか「社会は人を幸福に生きさせてくれる仕組みなのだろうか」といったことが再びリアリティをもって考え直され始めている今の日本を照射するものとして、たまたまチェーホフを素材にしたというふうに感じられる舞台になっていたように思う。つまり、チェーホフ自体が主題ではなく、現在の日本が主題なのである。
そのようにして観たとき、チェーホフの持つ、人間観とか知性や認識のもたらす世界観といったものに対する考察と思索というものが、社会との関わりと人の生という点で、実に確かで普遍的な意味を持つものであることがひたひたと伝わってきた。なかなか魅力的な舞台であった。明るくも楽しくもなく、重苦しさと憂欝に見舞われながら、思索することの誘惑と陥穽に誘い込まれるような、近代的知性の正統というものに久しぶりに接したような気がして、少々興奮した。
ラーギンを演じた島田彰は、芝居全体を支える存在感を充分に醸し出していたが、台詞につまりそうになることが何度もあったのが残念。三瓶睦子の看護婦の乾いた明るさが不気味なアクセントとして効果的で、藤本秀男の事務長とともに印象に残った。また、ステージに当たるスポットからは影になる部分や紗幕の奥でも、きちんと丁寧な芝居が演じられていることがよく判って、小劇場公演の良さが鮮やかな記憶として残っている。
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