Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》Ryusei_oojya

vol.23

'99. 11.11.       
南河内万歳一座『流星王者』       
会場:高知県立美術館ホール

 作・演出の内藤裕敬が同世代だからなのかもしれないが、時代に対する認識や時代についての記憶が自分のものと共有できる部分が多く、強い共感を覚えた。

 政治、経済、教育、性、共同体、人間関係など社会の諸相で今、なし崩しに箍が外れ、遂には底が抜けたような無軌道無規範を、日常性という穏やかな形にまで馴染ませているという、極めて異様な姿を現実が晒すようになった。それが人々の心に荒廃感をもたらし、日本人を危うくさせている。そのことを嘆く論調は昨今珍しくも何ともないのだが、どうしてこういうことになったのかをこの芝居のように、観る側が自らの生を辿り直す形で振り返るという体験を触発してくれる機会は、案外ないように思う。

 今の不安と閉塞感は、やはり「遅れてはならない」とみんなして闇雲に急行列車に乗るような生き方を始めた高度成長期に始まるのだろうと僕も思う。それが恐らくこの芝居で口にされる「もはや、あの“夏の始まり”とまでは言わないけれども、せめて“夏の終わり”の花火の頃にまで戻れたら」にいう“夏の始まり”で、“夏の終わり”の花火の頃とはバブルの時代なのだと思う。そういう意味では昭和三十年代前半に生まれ、いま齢四十代にある僕たちは、まさしくこの急行の旅のなかで生を受け、成育してきた世代なのだ。

 「みんなして被害者ぶるな」「じゃあ加害者か? とんでもない!」「そうか、第三者なんだ!!」などという台詞に喚起される当事者感覚の希薄な形での時代とのスタンスの取り方だとか、老夫婦の会話として出てくる「何しろ便利になった、楽になった、昔に戻ろうったって戻れやしない、良かったよ、戦争もなく、助かったよ、この便利さ楽さのお陰で生きてられるんだから」とかいった台詞に窺える、急行列車とともに生き、その恩恵を最も享受した世代として無自覚に批判の先鋒に立つことは叶わぬことを知る視界の広さと美意識というものが好もしい。

 地面から足が離れ、二階だとか三階だとかの同じ間仕切りの団地に核家族で暮らし、「鍵っ子」と呼ばれる子供のことが問題になり、厩舎に飼われる家畜のような生活空間のなかで同じ根を持たない者同志が近隣相互の好奇に走りがちな視線に晒されるストレスというのも、それ以前の生活様式からすれば劇的な変化だったのだろうが、今のマンション族の生活様式から見れば、どこか伝統的な長屋暮らしを思わせるくらいで、この間の時代の変化には隔世の感がある。ことほどかように時代の変化のスピードは早くなっていて、昔なら何世代かで徐々に変わってきた生活様式や世界観というものが一世代のうちに大きく変化している。

 大きく言えば、若者と大人という対立軸で捉えることで事足りたジェネレーション・ギャップというものが、今では三世代どころか、十代、二十代、三十代、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代ってな具合に、十歳くらいごとにその違いが際立つほどだ。さらには若年ほど加速化しているからこそ、コギャルがマゴギャルとの世代格差を指摘することにギャルたちがうろたえるなどという漫画チックな現象が生じているのだ。同時代に同じ空間に生きていながら、世界観を共有できる者たちが極めて限られた形でしか存在しないことが当たり前になっている社会の危うさというものに脅かされているのが現代なのだと思う。

 しかし、急行の時代を享受し、居眠りという楽をしながら消費してきた自分たちを反省する目は持ち得ても、急行から降りることまでは踏み込めない我々日本人が再びこぞって急行列車に乗り込み、居眠りを始めるなかで、大人になった“田中くん”が鍵っ子時代の田中くん自身と語り合う終幕には作者の迷いというものが如実に窺える。それまでは、自らの生を辿り直す形で時代を振り返る、過去から現在へと至る視線だったから、それなりの定点に立ち得るのだが、ここで乗り込む急行は未来へと向かう列車なのだ。

 夏が過ぎ、短い秋から冬に向かいつつあるという季節のなかで、行く手に嵐の黒雲を認めつつも、絶望だけでは向かいたくない意志と思いが、トンネルを抜けた後の青空のイメージを呼び起こす。でも、その一方で、急行に乗り合わせて居眠りを始めない乗客はほとんどいない現実に対して、安易に自覚と覚醒による希望の可能性を訴えることによって上手くおさめるという無責任さには、断じて手を染めたくないというまっとうな自意識が、すっきりしたエンディングを許さない。そのあたりの迷いと葛藤に満ちたラストの汽車の旅の部分に作者の誠実さと共感を覚えるか、冗長で意味不明と受け取るかで、この芝居のもたらす印象は随分と異なってくる。もちろん見事なエンディングだったとは思わないけれど、僕には共感と好感が湧いてくるものだった。

 猪木と馬場はどっちが強いかとか、吉村道明の回転海老固めとか、TV「八時だよ、全員集合」のカトチャンの呼び掛けの台詞だとか、学校の体育の時間に号令に合わせようという意志も目的もなく先生が発していた全員体操での発声のリズムとかいった、同時代を過ごした者の誰もが何処かで誰かと身体性を伴って交わした記憶を有するもののなかで、普通の人々の間で交わされた会話や関係性を抽出することによって呼び起こされる、時代についての記憶というものには、時事評論などで語られる歴史としての時代の分析や指摘ではなし得ない身体性を伴った触発が得られる。それは、演劇やら映画、文学などがなし得る一般的特質であって、この芝居に限られたものではないが、それが上手く効果的に果たせているかどうかという点では、個々の作品で大きな差異がある。単なるノスタルジーに終わらない形で、この芝居くらいには触発してもらいたいものだ。


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