Arts Calendar/Art's Report site/《YAMAsan no Live_bibouroku》Tethered_moon97

vol.3
'97. 10.15.    
「Tethered Moon 菊池雅章+ゲイリー・ピーコック+ポール・モチアン」会場:高知県立美術館ホール

 個々のプレイヤーとしては実に魅力的なのに、トリオでの演奏となると終始、違和感の伴う演奏であった。実はオープニングの際、メンバーがステージに現れたときの様子に、今日の演奏が象徴的に表れていたように思う。下手から菊池とゲイリーが登場したのに、ポールは姿を見せず、それぞれがピアノとベースの前に構えながら待っているのに来ないものだから、舞台中央からゲイリーが呼ぶとようやく舞台の上手からポールが登場したのだ。ポールが一人はずれて登場したことや彼を気にかけ声をかけるのが菊池ではなく、ゲイリーであったことなど、別にどうということではないのだが、まさに今宵の演奏を視覚的に表現していた。

 菊池のピアノは、一年前に「タッチ・オブ・ザ・キー」で聴いたときに印象深かったように、ひとつひとつの音を探るようにしながら、自身の内側に湧きおこってくる音を待ち、待つことと弾くことの間にある緊張感とせめぎあいが、表現される音楽そのもののテンションに結びついて、非常にストイックな、まるで神の啓示を司る苦行僧であるかのような、求道者のイメージさえ与える演奏スタイルだから、ドラムスのようなリズムを刻む楽器とのアンサンブルには、そもそも適していない。そんなことは素人でも判ることなのだから、ソロのときとは異なったプレイスタイルをとるか、あるいは不可能を可能にするような驚異的な音の造形と音楽の創造を果たすかの何れかを期待していたわけだが、その何れも果たされてはなかった。気持ちも音もてんでにばらばらといった印象を残していたように思う。そして、水と油のようなピアノとドラムスを何とか繋げて破綻させないでいる、ベースの力量が結果的に際立つことになる演奏会だった。部分的に現れる、ピアノとベースあるいはドラムスとベースといったデュオのときには、音の対照と調和が絶妙でなかなか素敵な演奏だっただけに、コンボとしてのコンセプトがなんだったのか疑問を感じないではいられない。

 実際、菊池のピアノにしても、ドラムスの響きがむしろ求道者としての彼の音探しの邪魔をしているようであり、そういう意味では、より苦行の様相を呈しているとも言えなくはないのだが、おかげでソロのときのような崇高さを醸し出すには到らなくなっていた。また、ポールのドラムスは、現実に苦行と言えるような我慢と辛抱を強いられていて、聴いていて、どこからもカタルシスが得られない。聴衆としては、このアンサンブルがいつ破綻するのか、いつ破綻するのかといった不安と緊張を強いられるようで、いささか疲れ果てる。しかし、さすがに当代一流の演奏家だけあって、どこにも破綻も見せずに最後まで貫かれるのだが、これがある意味でのスリリングさとして、心地好い緊張と疲労に繋がれば、それが即ちこのコンボのコンセプトだと言えるものになったと思われるけれども、何だか我慢比べに付き合わされただけの疲労感にしかならなかったところが、つまらなかった。

 とてもアンコールを望む気にはなれなかったのだが、会場では例によって拍手が続き、菊池が一人で再登場した。ソロでやるのかと思っていたら、遅れてゲイリーとポールも出てきたのだが、「やってもいいけど、今日の演奏でアンコールがくるとは思わなかった」というような顔をしているように見えて、ニヤッと一人ほくそ笑んでしまった。                        


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