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vol.31

'00.12.14. 
アサヒビール音楽講座ライブ+ワークショップシリーズ四国編
“日本音楽なんてありゃしない?!”
会場:高知県立美術館能楽堂

 ピアノ、三味線、バイオリン、ギター、マンドリン、チューバといった編成は、とても珍しいうえに「日本音楽などありゃしない?!」という刺激的な講座名を冠して、能舞台にセッテイングしてあるのを観るといやがうえにも期待が高まった。だが、講座として何を講じたかったのだろうという疑問は、むしろ終演後よけいに深まる形で残ってしまった。それぞれの素材も演奏も歌も実に魅力的だったし、以前ここで能楽堂を使ったピアノ演奏を聴いたときに、視覚的には面白くても音としては楽器のよさを殺してしまったように感じた記憶からすれば、思いがけないほどに音が良かったのは、セッティングに工夫がされていたからだろうが、それだけに、コンセプトがきちんと伝わってこなかったことが惜しまれる。コーディネーターの港大尋氏の話がおよそ講座というスタイルではなく、普通のコンサートのステージトークの域を一歩も出ていない薄味軽味で、しかも俯き加減のぼやき調だったことと高田渡オンステージに傾き過ぎたステージ構成が、大いに影響していたのだと思う。

 第1部:様々な声色に触れる、では声色よりも音色のほうが際立っていた。声色という点では、やはりアマラ・カマラに力があって、3曲目に演奏された彼自身の佳作曲「ヤラニ」でもインストルメンタルの部分では、たぶんに港氏のカラーだと思われる洗練されたジャズ的なイメージが強いのに、彼のヴォーカルが入ると途端にアフリカン・ミュージック的な素朴な力強さが前面に出て、面白いバ
ランスで聞こえてきた。そんななかにあって三味線の響きは、確かに違和感なく馴染んではいたが、ピアノほどにも存在感がなく、今回の講座名にある日本音楽を代表する形で登場している唯一の楽器だけに、タイトル倒れの編曲の割りを食った感じだ。高田和子は、演奏は素敵だったが声質に魅力が乏しく、今宵のステージのオープニング曲だったごぜ唄「小鼠太郎」の独奏語りでも、もっと渋みの
効いた声なら、また違った味わいがあったのではないかという気がする。高田和子・港大尋で演奏された2曲目の「万年サロメ」こそは、様々な声色に触れる、という演題そのもののために用意された曲だったのだろうが、あまり魅力的なものではなかった。
 声色よりも音色が際立った印象を残したのは、4曲目に演奏されたアフリカ伝統音楽だという「シディアラ」における佐久間順平のバイオリンの効果が鮮烈だったからでもある。3曲目と同様、アマラのソロが入ると濃厚なアフリカン・テイストになるのだが、佐久間が前に出ると俄然、カントリー&ウェスタンのフィドルのイメージが濃厚になってきて、楽曲もそのように聞こえてくるのだ。音楽
のイメージを作るのは基本的には曲調なのだろうが、それに加えて、それぞれの音楽に特徴的な楽器の持っている音色というものが実に大きな役割を果たしていると改めて思った。5曲目の「ピエダーデ」は、今回の講座のために作られた曲だけあって、さすがに三味線がフューチャーされていたが、前曲の演奏で感じたことを裏切る形で、三味線が前に出たからといって日本音楽のイメージを直ちに
呼び起こすものではないことを印象づけて面白かった。また、ジャズ風の演奏でベースのように響いてきた片岡耕一のチューバも、今宵の演奏がそういう印象を残した要因の一つだと思う。

 第2部:そして、高田渡の世界。彼が今回の音楽講座でどのような位置づけとしてメインに置かれたのかは、当日渡されたリーフレットを読んでもよく判らないが、ステージに不思議なユーモアと枯れた年輪が漂っていて、どこかに置き忘れてきたものを思い出させてくれるような、ある種の時代性を体現した音楽世界があって魅力的だった。それと同時に、痛切な唄でも、ギャグ的な唄でも、シニ
カルな唄でも、常にどこか哀調が漂っており、J-POPならぬ日本のフォークとしていわゆる伝統的な日本音楽ではないのだけれども、それゆえに、たとえ外国の原詩や原曲を使っても必ず漂う哀調こそが、ごぜ唄にも通じる日本音楽のエッセンスだとコーディネーターとしては言いたかったのかもしれない。しかし、聴衆はもっぱら高田渡のステージ自体を楽しんでいて、そういう思いを想起させるような講座としての構成は不十分だったように思う。ただ個人的には、高田渡のステージに触れたお陰で、帰宅後、二十余年ぶりに黒田三郎の詩集を書棚から引き出し、読み返してみたりした。彼の唄には、そういうささやかなものであれ、その場限りには終わらせないだけの何かがある。

 第3部:ムックリであ、そ、ぼ! これこそ何だったのだろう。マカロニ・ウェスタンの響きとして僕にも覚えのある口琴というものが、世界各地に分布する楽器で、日本にもアイヌのムックリというのがあるというのは判るが、これでちょっと遊んだからといって、リーフレットに書いてあるようなアイヌと日本の歴史に思いを馳せる人がどれだけいるのか。ステージがそういったものを喚起させる構成になっていたのか。高田渡の唄に観客のムックリをリミックスすることでコーディネーターは何を狙い、期待していたのか、皆目判らないままに終わった。
 港大尋氏は、音楽家としては才気煥発だと感じるが、音楽講座の講師には向いていないような気がする。興味深い素材と良い音、面白い演奏で楽しませてもらったのに、妙に腑に落ちない印象を残してしまったのでは、せっかくのものが何とも勿体ない。


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