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vol.24 

高知市民劇場例会作品2000年

'00. 1.28.  三生社『グッバイ・チャーリー』(第222回例会)

 コメディタッチの乗りがよく、楽しい芝居ではあったし、池畑慎之介の達者な西洋女形ぶりが見事だったけれども、女性観や男性観があまりにも保守的でしっくりこないところもあった。女の輝きは恋する男への一途な想いのなかだけにしかなくて、そのほかは葬儀のときであれ、ビューティサロンでの女どうしの見栄の張り合いやあてこすりであれ、いささか陳腐な女の醜態や狡さが強調されていた。それとの落差という形で、ラスティのチャーリーへの一途なまことの想いが語られるからこそ、チャーリーに覚醒を促すほどの感動を与えることに説得力が生まれるのかもしれないが、少々安っぽい気がしないでもない。女性の目から見てどうなのか、妻に尋ねてみたら、さほど気にはならないとのことではあったが…。                                  

'00. 3. 9.  前進座『母』(第223回例会)

 セキの化身とも思えるいまむらいづみの入魂の演技に心を揺さぶられ、感動の涙を流しながらも、しみじみとしたつらさが身にしみる芝居だった。多喜二やセキほどの魂であれば、我が身がかなわずとも恥ずべきこととは思わないけれど、四十余年も生きてきて、あまりにも遠く及ばないことを思い知らされると、やはり内心忸怩たるものが湧いてくる。子として、親として、そして、社会に身を置く者として…。

 老若男女、強き者も弱き者も、今ほどにこぞって剥きだしの私欲を臆面もなく罷り通らせている時代が嘗てあったのだろうか。多喜二ほどの才はなくとも、心根だけは多喜二やセキにかなわずとも遠く及ばないわけではない人々が少なからずいたのが世の中だったような気がする。現代に生きる者として自分が格段に荒んでいるわけでもあるまいと思うだけに、あまりにも遠く及ばないことがしみじみつらい。                               
         

'00. 5.19.  文学座『華岡青洲の妻』(第224回例会)

 名医華岡の偉業を支えた妻と母の献身の美談の陰に嫁と姑の張り合う姿を見た有吉佐和子の慧眼は是とするも、それを女のいじらしくも愚かな確執だとか家を背景とした男支配の結果だとかいう観点からだけ眺めたのでは、もはや今日的な作品の意義が怪しくなってしまうくらい、夫が一家の長として母からも嫁からも競い合うような献身を受けることなどなくなっているように思うが、そんな状況の変化で見るべきものが失われるほど痩せた戯曲ではないことを知らされた気がした。

 それぞれスタイルは違えども、生きる「道」をもって人生に臨む人の姿の、背筋が通って凛とした美しさが心に残っている。嫁の道、母の道、医学の道、師弟の道…。米次郎の純愛にしても、小陸の近代的自我への目覚めにしても、みなびとが自分の心の中に宿る「道」に殉じるような生き方をしているわけで、状況に即した効率的で得するための身の処し方ばかりを探し装う当世風の生き方とは対照的だ。
 それにしても、いくら江守徹演出だとはいえ、華岡を演じた外山誠二が台詞回しから声色・所作に至るまで江守徹さながらであったことに、いささか白けた。
三時間を越える長尺さといい、演出家としてのセンスを疑った。

'00. 7.13.  二兎社『パパのデモクラシー』(第225回例会)

 喜劇仕立であることは明白なのだが、あまりに日本という国の正鵠を射ているものだから、笑うに笑えなかった。今に至る日本人の国民的な無規範性、付和雷同ぶり、節操のなさ、ほっかむり体質、厚顔無恥な厚かましさ。総てがここから始まったような気がしてくる。

 戦前戦後で尺度が変わったと言いつつも、軍部はともかく、天皇を筆頭に政治家や上級文官の大半が為政者側に留まった体制のなかで、掌を返すような思想の転換を宣伝されても腑に落ちるはずもなく、半信半疑か、訳も判らずに被れるか、あるいは付和雷同するしかなかったのだろうとは思う。その板に付いてない御都合主義的な身の振り方や言葉の使い分けぶりが変に生真面目な分、滑稽さ以上に無残でやりきれなかった。第一幕ではそういった部分への諧謔的とも言えるほどの風刺ぶりが実に痛烈であった。

 ところが第二幕になると、痛烈さの代わりに、真の覚醒を促しようもない世の中の仕組みのままで途中で断つわけにもいかない生命を長らえていくには、こうやって生き延びるしかなかったのかもしれないという擁護的な眼差しが強くなってきた。美醜はともかく、ある意味では、発狂もせずに生き長らえていくための生活の知恵であり、庶民の逞しさだとも言える。しかも何とも苛酷なことに、我らが日本人は、わずか二年もたたない短期間に右左どちらにも手酷く裏切られたのだ。敗戦で神の国が信用できなくなり、ゼネスト中止令でデモクラシーにも裏切られる。どちらのときも固唾を飲んでラジオに聞き入り、そして、うな垂れるのだ。

 こんな体験を国民的に味わって、規範性や節操、信念、正義感、愛国心といったものが育つはずがないのだ。国家としても国民としても、住民個人としても、目先の損得にばかり機敏で、いかようにも振る舞える、信頼するに足らない姿というのは、実にこの国が五十年前に刻みこまれた出来事に端を発しているのだ。そして、五十年の歳月をかけておもむろにありとあらゆるところを侵食し、今のような箍の外れ方をした、底が抜けたようなモラル・ハザード社会を形成するに到ったのだとつくづく思った。

'00. 9.19.  エイコーン『欲望という名の電車』(第226回例会)

 十五年前の例会で青年座によるものを観た。そのときの東恵美子のブランチのほうが良かったように思う。そもそも、名作だとされる芝居ながら日本でも支持されることには、妙に合点がいかないとかねがね思っているだけに、余計のこと満足できなかった。

 登場人物の誰にも共感ないし心惹かれるものがないのだ。かと言って、それに代わる際立った社会性や時代認識というものが、非米国人に対しても普遍性を持つ形で宿っているようには思えない。アメリカ南部の文化環境を肌で知っているとか、時代の変遷によって社会的に置かれる状況が違ってきているのに、その変化について行けず、疎外されていく感覚から自身を守るために虚像にしがみつかざるを得ない没落階層の心境を知っているとか、かなり準備されたもののある者にとっては別なのだろうが、そうでない者にも充分にそれらのことを伝えるだけのものが、舞台だけでは表現しきれていなかったと思う。

 ブランチは、演ずる側にとっては挑戦しがいのある役柄かもしれないが、観ている僕にとっては、哀れを誘う以上にやはり嫌な女だとの思いが先に立つ。栗原小巻の台詞回しと所作だと余計にそういう印象が強くなったように思う。   
                  

'00.11.21.  テアトル・エコー『ラ抜きの殺意』(第227回例会)

 見事な戯曲だ。珍妙な現代言葉の見本市の部分だけでも、乱れた言葉や誤用乱用、珍妙な略語隠語の類から、母語やジェンダーの問題まで盛り込んで、よくもこれだけ集め、抽出し、再構成したものだ。それだけでも感心するに値するのだが、単に当世の言葉事情を面白おかしく見せるのではなく、人にとって言葉というものが何であり、どういう意味を持っているのかを的確に捉え、敢然と訴えてくる力に溢れている。

 「言葉は、その場をしのぐためのものでも、単なる意志伝達のための手段でもない」という本来なら当たり前のことが、問い掛け直されなければならない状況に、今あるのは確かだ。それだけコミュニケ−ション不全が蔓延しているのだろう。

 作者の言葉に対する、豊富な知識に留まらない、確かな見識が窺えた最初の台詞は、言葉には表情というものがあることを鋭く突いた、「あんたの敬語は正しいかもしれないけど、いつだって上から下を見てるんだよ」という指摘だった。海老名(安原義人)にあからさまにそういう喋り方をさせない演出だったからこそ、その台詞が際立ったわけで、うまい抑制だと思った。女性たちや堀田(熊倉一雄)らについては、かなり意図的にカリカチュアライズしていただけに、その加減の妙が的確で感心した。そのあたりから俄然面白さに深みが加わってきて、わくわくしながら観ることができた。また、それぞれの流儀で言葉を使っている人々のキャラクター造形が、その言葉に実にマッチした形できちんと立っており、人物観察としても楽しめた。

 でも、ジェンダーの問題についての部分は、少しこなれようが足りないようにも感じた。それは、僕が男性だからだろうか。


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