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vol.17 

高知市民劇場例会作品99年

'99. 1.22.  九プロダクション『枯れすすき』(第216回例会)

 生活力がなく、一家の主としての責任能力も果たせずに、女に助けられ支えられて、自らの思いのためだけに生きることが女から許される男。そういう男の持っている羨ましくも不思議な雰囲気と魅力というのは、きっとこういう感じなんだろうなと納得させるだけのものを篠田三郎が巧みな台詞回しで表現していてハマリ役だった。対照的に野口雨情を取り巻く女性たちは、みな気っ風が良くて、潔く力強い。それも元来そうだったという以上に相互の関係性のなかで育まれていった部分として窺えたところがなかなかのもの。でも、時間的には、ちょっと長過ぎた気がしないでもなかった。  

'99. 3. 6.  俳優座劇場『ちいさき神のつくりし子ら』(第217回例会)

 思っていた以上に質の高い舞台だったので満足した。実際に聾者である俳優による演技と言えば、映画のほうでは大学卒業間もない頃に観た『愛は静けさの中に』から最近の『ビヨンド・サイレンス』まで、印象深い演技を観せてもらった覚えがあるが、舞台では初めての体験だ。サラを演じた大橋弘枝は、きつい表情を少し多用しすぎという気もしないでもなかったが、実に力強く生き生きとしていた。一人で二人分の台詞をしゃべりどおしでこなさなければならなかったジェームズ役の今井朋彦は、汗だくの熱演ながら最後まで爽やかさと確かな知性を絶やさずに演じ、好印象を残してくれた。
 しかし、何と言っても卓抜しているのは、マーク・メドフの戯曲だ。いわゆる障害者ものの、類型化された筋書や人物造形を何処にも感じさせない見事なものだった。特に葛藤と屈折を折り込みながらも自負と意欲と希望の力強さを感じさせる主人公二人のキャラクターの複雑さや関係性の微妙な距離感の変容などには、これまでの障害者を扱った作品ではなかなか見られることのなかったレベルのものを感じた。また、エンディングにいわゆる作劇性を持ち込まず、確かなリアリティのままに終えたところにも強い感銘を受けた。安易な甘さが何処にもなく、それでいてけっして厳しい印象を残さない、貴重な作品だと思う。

'99. 5.18.  東京芸術座・劇団銅鑼『橙色の嘘』(第218回例会)

 互いに演じているにすぎないのだからという了解があるからこそ、逆に憶することなく自分の真情を託し表すことができるとか、冗談という衣をまとわせるからこそ、本音を言えるというのは誰にも覚えのあることだ。そういうまさかのときの逃げ道がないと、自分をさらけ出してはねつけられたときの身の置き所のなさに脅えてしまうのが人間というものだ。相手が自分にとって大事な存在であればあるほどに、そこのところを身構えるようになってしまう。信頼の問題ではなく、単に大事な相手だからこそ、拒絶されたり失ったりすることが怖くて、身構えてしまう自分というものに情けない思いをしつつ、もどかしい状況自体に苛立つ。そういうときに橙色の嘘というものの効用は、まことに大きい。
 そんな仕掛けの作劇自体は新味もなくありふれたものだが、この芝居が味わい深く心が和むのは、そういう人間の弱さ愚かさを擁護も糾弾もせずに受け止め、基本的な人間の性善というものに対する信頼感を作り手がその人間観のなかに素朴に窺わせていて、そこに作為的なものが感じられなかったからだろう。
 そのような後味を残すうえで、陽子の仕組んだ「橙色の嘘」が星川父娘との別れに際して、彼らのために謀ったものではなく、自分の思い出のためだったという位置づけがきちんとなされていることは、案外大事なことだと思った。

'99. 7.13.  幹の会+リリック『十二夜』(第219回例会)

 十八年前に出口典雄演出によるシェイクスピア・シアターの『十二夜』を観てから観劇を趣味とし始めた僕にとって、思い出のなかのあのステージにまさる『十二夜』は、あり得そうにもない。同じ小田島雄志訳の喜劇は、その後俳優座によるものを市民劇場の例会でも観たりしたが、いささか品性を欠くほどに砕け過ぎていたりで、さっぱりだった。それに比べれば、さすがに鵜山仁だけあって、かなりイイ線をいっていたように思う。サー・トービーにだけ関して言えば、今回のほうが良かったような気もする。しかし、今回の『十二夜』は、良くも悪くも平幹二郎のために仕立てあげられていて、シェイクスピア喜劇を楽しむこと以上に「あの平さんが…」という驚きと感心をねらっていたところが、役者目当てに芝居を観る嗜好を持っていない自分には余りしっくりと来なかった。シェイクスピア喜劇のテンポの良さと言葉のリズムや豊穣さに圧倒され、聴き取る自分の頭の回転が完全にはついていけないなかで、甘美な言葉の放射に眩惑される快感といったものを満喫し、シェイクスピアのひとつの核心部分に出会えた気にさせてくれた十八年前の舞台を懐かしく思い起こした。

'99. 9. 7.  しゃぼん玉座『唐来参和』(第220回例会)

 市民劇場の特別例会として同じ出し物を観たのは丁度十年前。これこそまさしく話芸と呼ぶに相応しい見事さに唸らされた記憶がある。確かにその軽妙洒脱な達者ぶりは見事なものだが、前回に比べるとやや精彩を欠いていたように思えるのは、記憶の結晶化のもたらすものだとか、いささか体調不良だったとか、というこちら側の問題だったのだろうか。
 前回の記憶でも個人的には、本編よりも、吉原の由来や風習などを予備知識として講釈する前口上のほうが面白かった。本編のお話は、やはりあんまりと言えばあんまりの話で、いかに軽妙な語りで笑いを促されても、本来とても笑える話ではないように感じるからだと思う。芸の達者さには耳目を奪われつつ、どこか違和感が残り、ほかのネタでこの一人芝居の話芸を堪能したいとつくづく思ったものだ。
 今回、前口上は既知のものだったので、新味が後退し、前回あれほど笑った“亀の湯”こそが新名称に相応しいってなネタがそれほどに冴え渡らなかった。同じ話芸とは言っても、このあたりが落語ほどの様式的な完成を遂げていないのだと思う。もっとも彼自身は、もともとそういう様式的な完成など鼻から目指していないとも思うのだけれど。そして、本編のほうは既知であっても新味が後退することで褪せる部分がほとんどない代物であったことに気づかされた。   

'99.11. 9.  プラハ・ブラックライト・シアター『空飛ぶ自転車&傑作小品集』(第221回例会)

 特殊蛍光塗料を塗ってブラックライトに反応する小道具を姿の見えない黒子に操らせ、まるで宙に浮き、動き回るように見えるという仕掛けが鮮やかだった。舞台出演者から黒子への小道具の受け渡しや操作のみならず、マイム劇を演ずる舞台出演者の身のこなしなど、卓抜した技術に裏打ちされ、洗練された舞台でもあった。
 それなのに、そのことに感心しながら観つつも、引き込まれるものがなかったのは、何故だろう。マジカルな仕掛けを「だからどうした」というほど醒めた目で観ていたわけではないが、「うわぁ、凄いなぁ」と目を奪われたりもせず、「童心を失ってしまっているのかなぁ」などと我が身を嘆いたりしていた。けっこう大したステージだったと思うだけにちょっぴり悲しい気分になった。   


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