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【コラム】
●踊る夏
毎年夏になると山梨でダンスを見る。田畑や廃屋、林や川などが舞台となり、舞踏家、ダンサーが踊る。野外で見るダンスは舞台とは全然異なる。周囲の音、虫や鳥の声、風のざわめき、身体に当たる風圧、陽の光、雲と雨などをすべて、踊り手と同じように体感する。村の人が集まり、子どもが遊ぶという環境。終ると周囲の人や踊り手と気軽に話す。
劇場というのは規格化された場所だ。黒または白の世界に閉じこめられる。真白いキャンバスに描くように、フラットな空間でものを作れる可能性はあるが、人工的な世界だ。踊りは元々野外で踊られていたもの。儀式としての踊りや音楽との踊り。いずれも自然のなかから屋内に入ってきた。野外では裸足で踊る踊り手も多い。普段は衣服や靴に守られる足が土や石、草の感触とともに踊る。あちこち傷つき痛い。自然に踊りも、訓練による身振りから離れようとする。
毎年、浅草の水上バス、定期遊覧船のなかでダンスを踊る企画がある。実は日常的に多くの舞踏家やダンサーが公園や路上、歩行者天国などで踊っている。海外修行し路上で踊る舞踏家もいる。東京都のヘブンアーティストなど制度化された枠組みを否定してい踊り、観客がいない場所で踊る人もいる。山梨のダンス白州を主宰する田中泯は、七十年代に路上で全裸に近い姿で踊っていた。近年は劇場での活動も多かったが、昨年から基本的には劇場舞台に立たないとして、日本各地、再び野外で踊り出した。
野外で踊ることは、舞台にもまして孤独な行為だろう。依って立つところは自分の体のみ。見る者も同じ環境に入り、感想を知らない人と語り合う。そこには表現する者と見る者の原点がある。語った相手が次の日、踊っていたり音楽をやっていたりと、踊る側と見る側の境も消えていく。表現とは何か、踊りとは何か、批評とは何かなどを論じる以前に、そういう場に身を置いてみることが、一つの始まりだと思う、暑い夏だった。
(2007/8/20 志賀信夫)
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