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昨年のこの時季は、奈良薬師寺の日光菩薩・月光菩薩がいらっしゃってた上野。
今年は阿修羅だぜぃ!
行かずとも見られるというのは、貴重でありがたいことではあるけれど、私は、音楽でも美術も神社仏閣(宗教と言い切るには抵抗があるので)も現場主義なので、出開帳の仏像には「いつもは見られない角度」の邂逅を期待する。
ガラスケースなしというのが、最近の出開帳の傾向のようで、今回の阿修羅展も阿修羅立像を含む[八部衆]と[十大弟子]を遮るものなしに間近に見ることができる。
興福寺の伽藍は広大でそこにいくつものお堂があり、それぞれに中尊が世界を作っておられる。
晴れて暖かい日にしか行ったことがなく、あおによしというよりも、もうちょっと水分や日陰が欲しいと思うなか、ひんやりと湿った空気のお堂と、その均整のとれた世界観は何ものにも代え難く、心拍が落ち着いていくのがわかる。
という体感は、やはり博物館での展示には期待できないが、見せかたの工夫は格段に進歩していると思う。
長方形の広く天井の高い空間に、[八部衆]と[十大弟子]が向かい合って立つ。
真後ろに回り込むことはできないけれど、360度の鑑賞が可能。
どうしても「ありがたく拝観させていただく」のではなく、「ジロジロと射るように見つめる」ことになってしまう。
異形の[八部衆]と僧形の[十大弟子]が向かい合うのは、異文化の国際会議の様相でかなりシュールであるが、この展示室の四隅に立ち、すべての仏像を一度に視界に入れるのは、なかなかの眺め。
それぞれが彫刻としての、計算され、立ち続ける姿の完璧なバランスがよく見えて、かっこいいんだ!これが!
[八部衆]のうち、阿修羅立像だけが別室で円形ステージに立つ。
「見るたびに思ったよりも小さい」というのは、誰もが阿修羅立像に持つイメージで、今回もそう感じた。
興福寺国宝館で見るときよりもさらに小さく、もっと言えば貧相に見えてしまう。
いつもいつも、ものすごく美化して記憶しているらしい。
[八部衆]の他の仏像には感じない、この痛みとか欠けたるものへの感情が、阿修羅だけ特別視する日本人の宗教観かもしれない。
(まぁ、阿修羅だけ裸だからねぇ。。。)
可哀想な感じの阿修羅立像をみんなが取り囲んでじろじろ見る様子に、阿修羅の寄せた眉間の皺がさらに深く、虐められっ子の表情に見えてきて、ちょっとばかりテンション下がる。
次の展示室は、壮大!
鎌倉時代の慶派隆盛の中金堂を、かなり分解した展示で魅せる。
もうこれは、ホントにお寺感覚ゼロ。
それぞれに当てられるライティングから浮かぶシルエットまで演出され、誰もがカメラを構えたくなるフォトジェニックな四天王がジグザグに並ぶ。
かっこいいとしか言いようがないですから。
サモトラケのニケやミロのビーナスの欠けているからこその美に通じる[八部衆]五部浄の痛みとか、阿修羅の悲壮感を否定するように。
四天王にしても、お顔の彩色はかなり落ちている。でも、それが歌舞伎の隈取りと錯覚しそうな強さに見える。
強調されたポーズの細部にまで集まる力は、暴力や権力でなく、父性・母性の強さである安心感、まさに守護の力だと思う。
そうして見ていくと、お寺のお堂に仏像で表現される世界は、本当によく出来ているなぁと思う。
四天王の位置からも、どうしても視界に入る大きな薬王菩薩立像と薬上菩薩立像。
こちらも大きい。
4メートル近くの大きさで、美しく優しいって、どうして?
この展示室になると、かなりフェードアウト気味ではある。
[八部衆][十大弟子]で苦みに浸り、四天王で熱い血流を感じたあとに、大きくて優しい菩薩を見上げ、見下ろされ、釈迦如来のお顔を間近で愛でる。
化仏や飛天の無垢な表情を見るうちに、シンフォニーの最終楽章、タクトが止まったのちの余韻に浸る。
(2009/5/11 WADA)
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